身の奥の奥に蛍を詰めてゆく 平田修【季語=蛍(夏)】


身の奥の奥にを詰めてゆく

平田修
(『闇の歌』昭和六十年ごろ)

はじめに断っておくと、今日はしばらく非常にくだらない話をすることになる。俳句だけを読みたいという方においては、前半部を読み飛ばされたい。

さて。ここ数日、俳句における「才能」という話題がTwitterを賑わせている。きっかけはとある人の「俳句は100%才能で凡人は一生凡人なのだ、と聞きショックを受けた。私の努力は無駄なのか?私は諦めるしかないのか?」というつぶやきであったらしい。実にくだらないが、この件に言及する多くの人が意識的あるいは無意識的に論述を避けている部分の解剖やそもそもの用語定義を以って、議論の問題点を詳らかにしたいと思う。僕はこの話題を解き明かしたいのではなく、皆に無駄な俳句メモリを使ってほしくないだけである。本稿をもってこんな意味のない話は終わりにしていただきたいと、切に思う。

まず、本件において認められた意見をいくつか要約して紹介する。これらはあくまでも状況の整理のために取り上げるのであって、全てに言及するわけではないことをご容赦いただきたい。

  1. 俳句は勝ち負けの世界ではないのだから、才能など気にせず好き勝手に楽しめばよい。強いて言えば、続けること自体が才能である。(非勝負論)
  2. 確かにいわゆる「天才」「エリート」はいるが、よそはよそ、うちはうち、である。(別世界論)
  3. 才能を言い訳にする人は好かない。全ては己の問題である。(自己研鑽論)
  4. そもそも俳句における才能とは?定義が曖昧。(議論の出発点)
  5. 俳句を他人から評価されるためのツールとしているからそのような感情に陥るのではないか。(よこしま論)

この中で本件を議題として捉え、議論を前進させようとしている意見は4だけである。全体的に、(無論、発言者を慰める意図での言及が多かったというバイアスはあるにしても、)「才能」の語が孕む脆弱性を避けた発言が多く見られた。まず、各人のぼんやりした定義の集合体として漠然と認知される「才能」の語を解体するところからはじめたい。

「才能」の語の持つニュアンスを俳句の文脈上で素因数分解すれば、以下のようになろう。

  • 「上手い句」「評価される句」をコンスタントに生み出す能力(=主宰選や賞を得る能力)。
  • 人とは違った突飛な(突飛に見える)発想による印象的な句を作る能力。
  • 出版など、俳人として第一線で活動する能力。
  • そうした能力を依代として、人気や注目を集めていること。
  • 上記のような要素を労せずして生得的に持っている、というニュアンス。

こうしてみると、この論が出発の時点から明確に、結社や賞といった俳句の(他の世界も同じだが)評価システムに依拠していることがわかる。そしてこの論で先ほどの1のように、「楽しめばよい」と述べている人の多くが(ほとんどが)、主宰をはじめとする選者の選を受けることを成果と捉え、成果を得た人を褒めそやすというそのシステムの内部にいる(むしろ、主たる構成者である)のである。

つまり、自分には才能がない/あの人には才能があるといった”お悩み”は、選を基軸としたシステムを肥大化させている彼らのような参加者自身が生み出した問題であり、そこには盛大な自家撞着があるのだ。

この話題がいかに無意味な問いであるかを説明したところで、僕の意見を少し述べて終わりとしたい。健吉の『鶏頭論終結』ではないが、『才能論終結』とでもしておこうか。

僕は、作品を作るという点において、「才能」は存在すると思っている。句作のプロセスは人それぞれあれど、それを100%言語化・理論化することができない以上、そこには理屈を超えて個々人が持つ特殊な能力が介在していると考えるのが自然だからである。

その上で、その能力の有無や強弱は俳句に関わるうえであまり重要度が高くないと考える。重要なのは句や評論、そして活動そのものがどうエポックメイキングであり得るか、あるいは俳句史をどう捉え、そこに自分や他者をどう位置づけていくかといった課題に対する問いを常に持ち続けることであり、その問題意識を互いにぶつけ合いながらアップデートしていく行為こそが俳句という生命体の栄養にほかならない。そしてその意識を備えた活動において「才能」など、取るに足らないとしか言いようがない。俳句とは技術の競争でも美意識の共有でもなく、態度の表明なのである。

身の奥の奥に蛍を詰めてゆく  平田修

平田は俳句と出会い、向き合う中で、石原吉郎や与謝蕪村、金子兜太といった人物の句を猛勉強した。きっかけは岩田昌寿の〈きよすでに炎の中や寒の声〉だったという。研鑽の場としての句会はあったにしても、彼はいわゆる選のシステムに加担しなかった。俳句の沼に頭から浸かり、探求すべき道を自分の力で切り拓いた。そこには幾千幾万の自問自答があっただろう。没入に次ぐ没入の果てに、彼がこちらを振り返ることは終ぞなかった。

問題意識なく俳句を書く人々があふれる一方で、平田のように強烈な印象を残す重要な俳人が知られないままになっている。僕の問題意識の一端は、こうした俳句史的な損失を掬い上げることにある。

細村星一郎


【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。



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