帰農記にうかと木の芽の黄を忘ず 細谷源二【季語=木の芽(春)】


帰農記にうかと木の芽の黄を忘ず

細谷源二


細谷源二は新興俳句弾圧事件で検挙され、その後保釈されたのも束の間、東京大空襲で職場を失い、終戦の直前に開拓移民として北海道に渡った。その開拓生活の際に書いていた日記(帰農記)に、木の芽の色のことを書くのを忘れたというのである。木の芽の色が黄であることなど本来はどうでも良いことで、日記に記すほどのことでもない。それでも、それをあえて記しておきたいというのが、貧しく厳しい日常に精神を埋没させないための、自らのひとつの芯のようなものだったのかもしれない。

しかし、それも書けなかった。日々の仕事に追われてしまったのだ。木の芽という希望にも似た存在を手帖に残すこともできず、この先持ちこたえられるかどうかという不安との鬩ぎ合いが、昨日も今日も続いていたことだろう。

この句を読んで思い出したのは、私が酪農を始めたころのことである。私が現在地に移って40頭の初妊牛(初めての分娩を控えた牛)を導入したのは10月の、おそらくは紅葉のころだった。もちろん紅葉を愛でる余裕などなく、つぎつぎと分娩する牛の世話をするのに忙しい毎日を送っていた。11月も半ばになったころだっただろうか、ある日トラクターに乗っているとき、あたりが雪で真っ白になっていることに不意に気づいたのである。

その雪は、その日に積もったものではなかった。もう根雪になってから何日も経っていたはずだった。それなのに、だんだんと白くなっていったという記憶がまったくなかったのだ。私は源二とちがって俳句も作っていなかったし、あたりの風景のことなどあまり興味はなかった。それでも、こんなにも視界が狭まっていたのかという驚きと、そのことにすこしの怖れを感じたことは今でもよく覚えている。

「砂金帯」(1949年)所収。

鈴木牛後


【執筆者プロフィール】
鈴木牛後(すずき・ぎゅうご)
1961年北海道生まれ、北海道在住。「俳句集団【itak】」幹事。「藍生」「雪華」所属。第64回角川俳句賞受賞。句集『根雪と記す』(マルコボ.コム、2012年)『暖色』(マルコボ.コム、2014年)『にれかめる』(角川書店、2019年)


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