筍にくらき畳の敷かれあり
飯島晴子
本意にどっぷり浸かりながらも、本意に抵抗する矛盾そのものが俳句形式ではないかという晴子の考えは以前も紹介した。筍も畳も本意をたっぷり含んだ言葉である。晴子に竹や筍の句、畳の句は少なくなく、身に馴染む言葉であったと思う。掲句から、その抵抗の方法を一つ見てみたい。
この句では筍「に」という曖昧な表現を以て、筍と畳の位置関係をさだめずにおいている。すぐに思い浮かぶのは、「座敷から、裏の竹林の筍を眺める」くらいの距離感である。畳に筍がなんとなくぼんやり映るような印象を持つ。これはこれで美しいが、これではとてもではないが本意に抵抗しているとは言い難い。
「敷かれあり」をしっかり消化すると、筍の下まで畳がするすると敷かれてゆき、竹林の床が畳になるような感じが出てくる。筍も畳も古くて大きな言葉であるし、おまけに色調や手触りもなんとなく似ている。この二つのもの、いやこの二つの言葉を、互いを打ち消しあうぎりぎりのところまで近寄せたのが掲句ではないだろうか。その摩擦からうまれる熱、こわしあう寸前の緊張感が掲句の魅力であり、晴子の俳句の一方法であると思われる。
さてしかし。晴子はこうも述べている。「京都近辺の竹藪は、よい筍をとるために手入れされているせいもあってか、関東の竹藪とは趣きが違う。関東で竹藪が特に美しいと思ったことはないが、関西へ行くと竹藪が美しいと思う」と。それを考慮すると、掲句には、丹精に整った西の竹林のみならず、荒々しい東の竹林のイメージも含んでいるとも思われる。そうすると、畳は一気に竹林から遠ざかるような気もするし、一気に山奥の荒々しい竹林へ広がってゆく気もする。一つ一つの言葉という単位で、本意以外のイメージを重ねると面白いのは、やはり晴子作品が、本意の側から本意に抵抗することを旨としているからだろう。
(小山玄紀)
【執筆者プロフィール】
小山玄紀(こやま・げんき)
平成九年大阪生。櫂未知子・佐藤郁良に師事、「群青」同人。第六回星野立子新人賞、第六回俳句四季新人賞。句集に『ぼうぶら』。俳人協会会員
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