十六夜や間違ひ電話の声に惚れ 内田美紗【季語=十六夜(秋)】


十六夜や間違ひ電話の声に惚れ

内田美紗
(『誕生日』)

作者は、昭和11年、兵庫県生まれ。京都の高校を卒業後、東京で演劇を学ぶ。大阪を拠点に俳優、アナウンサー、コピーライターとして働く。47歳の頃、坪内稔典氏の句に惹かれて俳句を始め、「船団の会」に入会。坪内氏からは「演じる俳句」と評された。数年後には鈴木鷹夫主宰の「門」にも入会し、表現の幅を広げた。夫の急死を乗り越え、独自のライフスタイルで俳句を詠み続けている。平成27年に出版した俳句写真集『鉄砲百合の射程距離』は話題となり、老若男女を問わずファンが多い作者である。

〈待たれゐる死やかすかなるバナナの香 美紗〉〈ゆきずりの男と眺む浦島草 美紗〉。確かに演劇的である。〈昼寝覚この世の水をラッパ飲み 美紗〉〈天高しみんなが呼んで人違ひ 美紗〉。些細なことも可笑しみに変える天性の明るさとその表現力が魅力的だ。

掲句は、ドラマチックな句である。携帯電話が無かった時代、電話番号を電話帳で調べたり、手帳に記したりしていた。メモを見て、ダイヤルを回す。暗記が得意な人は、何も見ずに回すこともあった。今のように登録してある番号を押せば繋がる時代ではない。一つぐらい数字を間違えることはよくあることだった。間違い電話から始まる恋を描いたドラマもあった。時には、適当に回した番号で若い女性が出たら「今、何してましたか」と問いかける、ナンパ電話もあった。現代の「オレオレ詐欺」みたいに知り合いのふりをして、話を発展させる手法もあったらしい。

声には、表情がある。お問い合わせセンターの仕事をしていた時、第一声で相手の状況を察することができた。敵意があるか好意的かなど。自分が、クレーム電話をかける際も相手の「お電話ありがとうございます」の第一声で怒りが消えることもあれば、さらに不愉快になることもある。電話応対の仕事をしていると、この人ともっと話がしたい、友達になりたいと思うことがあり、同僚の間でも「声で得をしてる人っているよね」などと盛り上がった。世の中には、声を仕事にしている人が沢山いることを考えれば当然である。ただ、大事なのは声の表情である。声もまた演じることが出来るのだ。

間違い電話がかかってきたのが〈十六夜〉なのも見事である。十六夜は、中秋の名月の翌日の月のこと。今年は、9月17日が満月なのでその翌日の18日になる。やや欠けた月に深まってゆく秋の淋しさの風情を味わう。男女の逢瀬が月夜の晩に限られていた古代では、少し遅くなった月の出に微かな苛立ちを感じた。〈十六夜〉は「いざよい」と読み、「ぐずぐずする」や「ためらい」の意味がある。また、通い婚の男性は、満月の夜は本命に逢いに行くため、二番目の女性は十六夜を待つことになる。十六夜には、女心の影の部分も含まれている。

鎌倉時代の紀行文『十六夜日記』は、藤原為家の側室である阿仏尼が、実子為相の相続をめぐり、京から鎌倉へゆく道中のことが記されている。権大納言為家は、正室の長男為氏に細川荘を譲ることにしていたのだが、遺言にて溺愛していた側室の息子為相に譲ると覆した。正室の長男為氏は遺言を認めず細川荘を譲らなかったため、鎌倉幕府に訴訟することになった。当初は『阿仏尼日記』と呼ばれていたが、日記の日付により『十六夜日記』と名付けられた。その背景には、阿仏尼が側室であったことことが伺える。十六夜の身の側室が、いざなわれるように出立したことと響き合う。

十六夜というのは、淋しい夜である。独りならばなおさらのこと。そこにかかってきた間違い電話。誰でも良いから、人と話がしたい夜はあるものである。「ああ、間違えました。貴重な時間を邪魔してすみませんでした」。その声が深く温かく響く声であったら、「いえ、退屈していたのです。どちらにおかけの電話でしたの?」などと言いたくもなってしまう。きっと、何もなかったのだろう。ただ、心のどこかで、もう一度かかってこないかしらと思いつつ。

十六夜や間違ひ電話の声に惚れ   内田美紗

東京で一人暮らしを始めた頃の家の電話番号は、どこぞの蕎麦屋と一桁違いであった。昼夜を問わず「出前まだかよ」とか「粉の仕入れが遅れます」とか、「もしもし」も言わずに話し出す。ある時は、「はい」と出ると女性の声で「あんた誰よ」と怒鳴られた。「篠崎です」と答えると「偉そうに名乗るなよ」と返してくる。「では、あなたは誰ですか」と聞くと「家内よ」と言う。「誰の家内ですか」「はぁ?何様のつもりなの。顔が良いだけのバカ女が。店を仕切ってるのは私よ」「何の店ですか?」「あんた今、蕎麦屋にいるんでしょ」「どこの蕎麦屋か知りませんけど、随分大変なことになっているみたいですね。どちらにおかけの電話ですか」「間違えたなら早くそう言いなさいよ」「間違えたのはそちらですよね。確認もせずに怒鳴るなんて失礼ですよ」。しばし無言の後に切れた。

その数日後、今度は若い男性の声で「蕎麦屋さん?」とかかってきた。「違います」「あーまた間違えちゃった。ごめんね。実は二度目かも。電話番号から察するに世田谷に住んでるのでしょ。今度一緒に蕎麦食べに行かない?」「その蕎麦屋さんからは先日、酷い間違い電話がかかってきて、今も腹が立っているのです」「もしかして、店主の愛人に間違われたとかいう声の主かな。やっぱりそうか。女将さんは、店主に愛人がいると思い込んでいて、準備中の店に電話をしたら女性が出たので、怒ってしまったそうなんだ。かけ間違いだったとは知らずに」「でも顔が良いだけのバカとか言われましたが」「それも女将さんの思い込みで、声の感じから若い美女を想像してしまったみたいなんだ。蕎麦屋では数日間笑い話だったんだよ。だから一緒に行こうよ」「本当に迷惑しているので無理です」「あー残念。実は、前に間違えた時に、きれいな声の人が出たので、電話番号を控えておいたんだ。女将さんの話を聞いて、あの時の人かなと思ってかけてみました。すみません。今回はわざと間違えました。また電話してもいいかな」「ダメです」。とは言ったものの、ひとしきり笑いながら蕎麦屋の話で盛り上がった。

電話を切った後、以前、若い男性の声で間違い電話があったことを思い出した。確認のためにと電話番号を聞かれたことも。「一桁間違えたようです。大変失礼しました」と謝罪した声が少し素敵だなと感じたことも。急に気になって、タウンページで一桁違いの電話番号の蕎麦屋を探した。その蕎麦屋に行けば、ナンパ電話の主と逢えるかもしれない。ついでに蕎麦屋の女将に文句のひとつも言ってやろうか。いろいろ想像して楽しくなったが止めた。そこまで暇ではなかったからだ。ただ、間違い電話から発展する恋があったとしたら、ドラマチックだなと思った。だから、無礼な女将さんのことは許すことにした。

それ以来、間違い電話はかかって来なくなった。仕事が早く終わった夜は、湯あがりに寝酒を飲みながら、あの男性のことを考えた。声が俳優の誰かに似ていたなとか、普段は紳士的だけれども実は強引な性格なのかもとか、また電話がかかってきたら逢ってみようかなとか、とめどない妄想が広がった。一人暮らしの夜長の部屋に淋しい月明りが差していた。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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