埋火もきゆやなみだの烹る音 芭蕉【季語=埋火(冬)】

 比喩の種類別に句の数を見ると、まず隠喩が27句と7割以上を占めている。 共感覚俳句と隠喩との深い関係性については先述のとおりだ。 そのほか、活喩(擬人法)が5句、張喩(誇張法)が2句、声喩(オノマトペ)が2句、喩なしが2句となり ほぼ全句が何らかの比喩表現によって詩の核心(中心的成分)を得ている点も、注目すべきであろう。、ちなみに活喩や張喩も、先に述べたグレアリング・エラーを含むこの転義(語の本来の意味が 他の意味に転じること。また、転じて生じた意味)への転用があるかぎり、隠喩の仲間だとする説があることも、ここで付記しておきたい。

 さらに刮目したいのは、これらの共感覚俳句の中には芭蕉の名句として人口に膾炙してきた句が、少なくとも10句余りはあることだ。 これらはいかにも芭蕉らしく、芭蕉句の真髄ともいえる句群である。山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(前出)もこの句群の中から、「海くれて」「閑さや」「郭公(ほととぎす)」「暑き日を」「(ねぶか)白く」「むめがゝに」の6句を取り上げている。ほかに「霜を着て」「ほろほろと」「秋の夜を」「野ざらしを」「石山の」の5句などもよく知られた名句であろう。 共感覚俳句の価値は、量ではなく質の価値である。

 いま、これらの名句を含むリスト中の各句の、隠喩の核心部分を噛み砕き、短い口語の平叙文のフレーズに書き替えてみるとどうだろう。 ちょっとランダムな例示になるが、「(捨子が)霜を着る」「(捨子が)風を敷寝する」「(木枯が)たけにかくれる」「(木下やみに)ふかぬ笛をきく」「(なみだの音が)烹(煮)える」「(蟬の聲が)岩にしみ入る」「(咄が)秋の夜を打ち崩した」「(木枯で)岩が吹きとがる」「(郭公の声が水に)横たう」「(泉が)歯にひびく」「(最上川が)暑い日を海に入れた」「(葱を白く)洗いたてたさむさ」「(嵯峨の竹の)すゞしさを繪にうつした」「(梅の香に)追いもどされる寒さ」「(梅雨の降る音で)耳もすくなる」「(水の音が)青田に涼む」……。

 このように見てくると、俳句の骨法は名詞の的確な選定にあるとする在来の諸説は、にわかに疑わしくなるほどだ。 芭蕉が苦心に苦心を重ね、内感から伸びる繊細な触手で搦め捕ってくるものは主として動詞(あるいは複合動詞)であることが歴然とする。 これは共感覚俳句にかぎってのことではないが、共感覚俳句の大きな特徴であることはまちがいない。その捕縛の仕方の狙いの中には、詩的真実を表す美的効果と同時に、俳諧に伝統的な俳味を匂わせるところもあるようだが、芭蕉一流の<高悟帰俗>の詩精神は手放していない。

 常用語としては明らかに間違っているとしかいいようのない動詞を探り出すことによって芭蕉が突き詰めたものは、「物の見えたる光」であり、それを十七文字しか許されない短詩の中へ最適な短さと鮮度で織り込むことにより、即自性のより強い充実した言語への「もの化」ではなかったか。

 それは、稀有な散文家でもあった芭蕉にとって、紀行のような散文ではとても成し遂げることはできず、かつまた、連句から独立した発句の完結性を担保する方法でもあったであろう。 表現の一挙性を旨とする短詩表現への隠喩の活用を求め、それを可能にしたものは、まるで果実の種のような存在として動詞を活かしきった真の「動詞の活用」であった。

 さて、ここにあるのは大方が主観句といってよかろう。少なくとも眼前の景や事物をありのままに写すことを目指す近代の客観写生とは相容れない、その対極にあるといっても過言ではない作法を探った詩だ。「心の味をいひ取らんと、数日腸(はらわた)をしぼる」 (『三冊子』)のような芭蕉ならば、その心裡を比喩によって表そうという意識を是としたとしても不思議はあるまい。 「心の味」を写そうとして成るものは、客観写生ならぬ主観写生というほかはない。 単なるスケッチやデッサンではなく、風韻や写意を含む本来の写生に根を下ろした俳句作法の要諦を、芭蕉は熟知していたと思えてならない。

 さればこそ、共感覚は芭蕉のモチーフになり得た。さればこそ、芭蕉は共感覚に最適な手法を探り得た。 己と対象との間に思いもよらない比喩の橋を掛け渡し、主人ー客の自由な交感の通路を拓いた。 芭蕉が呼び掛ければ、対象は光を放って応えた。芭蕉はその味わいを享受した。そこには物と心の融合、主ー客感合の世界が成り立ち、 芭蕉の創造の沃野の拡大と充実に測り知れないエッセンスを注ぎ込だ。

 ここに至って、メルロ=ポンティによる『知覚の現象学』の要約解説(前出)でまとめられた結論的な記述を、改めて思い浮かべてみたくなる。 そこでは、共感覚を生む身体が場となる「共通感覚」を知りつくした画家の例が引かれた。まさしくそういう画家が、「主ー客の対立を超えて、能動ー受動の対立を超え」て、「対象の真の経験を取り戻す」のだという。 そしてそれは、この世界が「汲みつくし得ない豊穣さを有している」あかしであると。

望月清彦


【執筆者プロフィール】
望月清彦(もちづき・きよひこ)
1935年東京都三鷹市生まれ。東京都在住。俳誌「百鳥」同人。総合誌「中央線」同人。1990年俳誌「裸子」年度賞・身延山賞、2008年角川書店賞、2011年毎日俳壇賞、2012年読売俳壇年間賞、2013年朝日俳壇賞、2020年読売俳壇年間賞受賞。同年NHK全国俳句大会龍太賞入選、2021年同龍太賞入選。句集『遠泳』(読売俳句叢書第Ⅰ期第2集)現在『読売年鑑』文学分野載録俳人、俳人協会会員。



【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】

>>〔1〕海くれて鴨のこゑほのかに白し      芭蕉
>>〔2〕木枯やたけにかくれてしづまりぬ    芭蕉
>>〔3〕葱白く洗ひたてたるさむさ哉      芭蕉

【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】

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>>〔2〕息ながきパイプオルガン底冷えす 津川絵理子

【2021年10月の火曜日☆千々和恵美子のバックナンバー】

>>〔1〕橡の実のつぶて颪や豊前坊     杉田久女
>>〔2〕鶴の来るために大空あけて待つ  後藤比奈夫
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>>〔4〕藁の栓してみちのくの濁酒     山口青邨

【2021年10月の水曜日☆小田島渚のバックナンバー】

>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり   夏目漱石
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔3〕嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計 赤尾兜子
>>〔4〕野分吾が鼻孔を出でて遊ぶかな   永田耕衣

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