復興の遅れの更地春疾風
菊田島椿
菊田島椿は宮城県気仙沼の沖に浮かぶ大島出身の人。この「セクト・ポクリット」にも何度か登場している菊田一平さんのお父上だ。
十年前の三月十一日、気仙沼市内の病院を退院し、帰宅のために乗ったカーフェリーが島に間もなく着岸しようとするとき、地震が発生した。夫婦で高台に避難し身の危険は逃れたものの、浜にほど近い自宅が津波に飲み込まれるのを目の当たりした。その心中は察しても到底察しきれるものではない。
私が今開いている氏の句集『端居』は平成十一年から三十年までの二十年に亘る句業を編年体で収めてあり、平成二十三年の章以降は、三月十一日当日のこと、そしてその後の暮らしをテーマとするものが当然ながら多い。しかし、そこでは慟哭や天災に対するやり場のない怒り、といった激しい感情は抑制されている。どちらかと言えば、<高らかに被災の闇の鬼やらふ>、<復興地四温日和を余さずに>など、哀しみを内に抱えつつも復興への希望を語り、或いは<春灯の一つ点れる被災浦>、<夕月や災禍の果ての瓦礫山>と復興途上の土地を抒情ゆたかに描く作品が目立つ。
震災から数年後に詠まれた掲句はそのような特性のなかでは技巧もなく、それだけに心の揺れが率直に表れているともいえる。
被災地各地の一日も早い復興を、との掛け声ばかりで、実際には膨大な瓦礫の処理、地盤の整備、インフラの再興など向き合う問題が山積みで捗らない。熨したかのように広がる更地の土を巻き上げる強風がなんとも皮肉だ。復興はなぜ疾風怒濤の勢いで進まないのだろう。
そんな焦燥感が表れているようだ。
東京オリンピック・パラリンピックの招致活動で当初繰り広げられたのは「復興五輪」キャンペーンだった。十年の節目に被災地が復興した姿を世界に発信すると、あの頃は高らかに謳っていた筈。それがいつのまにか「人類がコロナに打ち勝った証としての五輪」とやらに化けている。自国の復興をおざなりにしておきながら、こんな宣言が出来るとは大した人類代表である。
この句が「いま」の問題でなくなる日が早く来てほしいと切に願う。
(『端居』東京四季出版 2018年より)
(太田うさぎ)
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【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』。
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】