しんしんと寒さがたのし歩みゆく
星野立子
「寒さ」という一般にネガティブに思えることさえも「たのし」としてしまうというところに、「生」を肯定するような姿勢が思われる。また、この「たのし」は、絶妙な措辞のバランスで本当らしさが成り立っているように思う。私としては「寒さがたのし」だけでは「たのし」に言っただけの感が強いように思う。体感的な「しんしんと」によって本当らしい感じが増し、下五の「歩みゆく」という行動によって、「たのし」という気分が主体として受肉するような感じがする。「歩みゆく」によって「たのし」が反芻される感じがあって、それで息づいているようにも思う。
立子の作風としては、向日性に目が行きやすいところではあるが、実は「桃食うて煙草を喫うて一人旅」という句もあったりする。2018年10月21日(日)放送の「NHK俳句」では、孫の星野高士が立子遺愛の煙草入れと灰皿を持参しており、なるほど本当に吸っていたのだなと知った。
句の話に戻る。中七で切って転換して下五に展開を置くというのは、「ホトトギス」の書き手の有名句にもよく見られる型である。例えば、「羽子板の重きがうれし突かで立つ かな女」は、「上五中七(対象への直情表現)/下五(行動)」という風に考えれば、立子の句と同じ型である。虚子の「うつくしき羽子板市や買はで過ぐ」や「祇王寺の留守の扉や押せば開く」も下五の展開という点では共通するが、前者は「上五中七(景に対する直情表現)/下五(行動)」、後者は「上五中七(景・物の描写)/下五(それに対する行動・描写)」といくらか景を据えている点に着目すればやや違いがある。秋桜子の「寒鯉はしづかなるかな鰭を垂れ」も型としては遠くなかろう。
正直に白状すると、俳句をはじめたばかりの頃、下五において展開するという句の型を目にしたのは、虚子や立子の句よりも「澤」調と評されている句の方が先だった。「澤」調については、『澤』(2021年8月号)の青木亮人の評を参照しておきたい。
これらは一例だが、「上五・中七の描写/下五の語り」、つまり眼前の出来事を活写して世界像をまず完成させた後、下五で「語り」に近い具体的な説明や理由を添えて軽く詠み終える表現は「澤」の特徴の一つといえよう。無論、各作家はそれぞれの俳句観や独自性を有するが、同時に彼らが集う「澤四十句」をあるエコールと見なした際、「澤」の個性は下五に如実に現れるかに感じられる。
なお、「描写・語り」は一般的には小説や現代詩等の分析に用いられるが、「深」の表現を考察するには「語り・声」という発想を用いた方が有効と思われるため、さしあたり使用することにしたい。また、結社という大括りで表現の特徴を抽出する場合、本来ならば複数の師系や他結社と比較すべきだが、まずは「澤四十句」に見られる下五の表現に着目しつつ、「描写A+語りB」がいかなる形を取るかに焦点を絞りながら考えてみよう。
「澤」調という評が行われるとき、かねてより結局どのように定義されるのかと思うこともあったが、言われてみれば「澤」に掲載される句はその都度都度、それでまた今日も行われているのだから、必ずしも規定に沿うものでもなかろう。評す側の都合はよそに、もっとも流動的なものが、「澤」調に限らず、「~」調というものであろうと思う。なので、「『澤』の個性は下五に如実に現れるかに感じられる」というように広くとって、「下五におけるバリエーション」のような大きな括りの方が見えてくるものは多いのかもしれない。
同じく「澤調」について、髙柳克弘が『俳句』(2021年11月号)の合評鼎談で、次のように述べている。
堀田さんが最初におっしゃった「澤」調ということをもう一度、確認しておきますと、「中七」で切るという文体ですが、その上五中七が何を詠むかと言えば、主に季語についての描写です。その上で、中七で切る。そして、通常であれば、中七下五で季語のことを詠んだら、ほかの話題に転じる作り方が多いと思います。
例に挙げると、一句目の<焼岩魚>(筆者注・焼岩魚身の純白や皮剝けば)はその典型でしょう。黒く焦げた焼岩魚の身が<純白>なんて、ちゃんと描けていますね。そうした描写のあとには、お座敷で戴いているとか、川べりで焼いているとか、岩魚を食べようとしている自分のことを詠んだり、話題を転じるのが常套的な作り方だと思います。ところが、小澤さんの、いわゆる「澤」調では、さらに描写を重ねるのです。ほかに話題を転じて句の切り取るところを広げるのではなくて、むしろ一点集中で詠み切っていく。それがいわゆる「澤」調と言われているものです。
髙柳の定義は青木の定義の中に収まってみえるが、先にあげた「ホトトギス」の書き手の句などとの差異を念頭に置いた場合、描写に描写を重ねるのが新機軸というのは大変納得させられるところである。
「~」調について思うことは、選を交えた句座や雑誌という有機的な「場」における批評や句の内容なり型なりの流行が句にたち現れる痕跡としてうかがえる、という、そういう現象的な側面からの面白さである。
「~調」ということについて、類型化の批判がなされることはよくあることである。だが、同型性への着目よりも、「~調」の微細なパターンの差異に着目する方が、〝新たな一句〟というものを夢想して命がけの跳躍を行おうとする地点においては、格段に役立つように思われるのである。
余談だが、私は「澤」調のバリエーションとして、「ソーセージころがし焼きや花木槿 小澤實」 にある「ころがし焼き」のような名詞化もその一つだと思っていた。また、これについては、「傘のねばり開きや谷崎忌 山上樹三雄」を彷彿とした。このバリエーションの探求も面白かろうと思っている。
(安里琉太)
【執筆者プロフィール】
安里琉太(あさと・りゅうた)
1994年沖縄県生まれ。「銀化」「群青」「滸」同人。句集に『式日』(左右社・2020年)。 同書により、第44回俳人協会新人賞。
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