伊太利の毛布と聞けば寝つかれず
星野高士
普通自動車免許(AT限定)を取得した。世界が変わった。人の運転を見ると、ギアをこまめに変えている。やはりマニュアルは私には無理だ。バスに乗ると妙な緊張がとまらない。車間距離、これで大丈夫?自転車を追い越してすぐに対向車線から自動車が来たがするっとすれ違う。なんというなめらかさ!そして大型トラックやトレーラーの運転士の空間認識能力を心底尊敬する日々となった。
運転を知り、自動車一台一台にキャラクターを感じるようになってきた。ドライバーの性格を推測するのが楽しい。世界はこんなにも生き生きとしている。学生の頃に免許をとっていたら感じ取ることが出来なかったことだろう。今でも電車大好きに変わりはないが、自動車が興味深いものに変わったことは財産だ。
瀬戸内寂聴が出家したのは51歳。その年齢に私は自動車を生き物として見る視点を手に入れた。人生初というものは減る一方だが、まだこんなに興味深いやり残しがあったのだ。
伊太利の毛布と聞けば寝つかれず 星野高士
作者のプロフィールを考えるとイタリア製即ち高級だから緊張して眠れないということはないだろう。しかし作者に寄り添わない読みもあって良いと思う。とはいえ素直に考えればイタリアのキーワードから現地の美しい景色や建造物、美味しい食事などが次々と脳内に甦ってきて興奮状態となったのではないだろうか。世界各地の中でもイタリアには殊に思い入れがあるに違いない。遠足前夜の心持になりつつ、結局は快適な毛布から心地よい眠りに落ちたはずである。
掲句、イタリアでも伊太利亜でもなく、「伊太利」と綴っている点に注目したい。この字であれば「イタリア」と読むこともできるが最初に浮かぶのは「イタリー」という少し古めかしい呼び名である。この古さが今よりずっとイタリアが遠かった時代を思わせ、高級感を増大させる。こうなってくると「ア」や「亜」は邪魔なのである。さらに、布団ではなく毛布。布団と言ってしまうと日本の生活感を免れることが難しい。ここは毛布がその質感も含めて絶妙なのである。
その毛布が伊太利からきたものとわかる前とわかった後の気持ちの差異を純粋に楽しんでいる。知るとは不可逆的なことだ。一度知ってしまったことを知らなかったことにすることはできない。でも、ご心配なく。知らないことはまだまだ無限にあるし、体験したことのないものもいくらでも挙げられる。まだ人生を楽しみつくしてはいないのだ。
『渾沌』(2022年刊)所収。
(吉田林檎)
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
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【星野高士句集『渾沌』!】
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】