沈丁や夜でなければ逢へぬひと
五所平之助
(『五所亭俳句集』)
オードリー・ヘプバーン演じる映画『昼下りの情事』は世間に強いインパクトを与えた。清純派女優のオードリー・ヘプバーンのイメージがちょっと大人になった瞬間だった。
本来男女の逢瀬は夜である。『日本書紀』に記されている箸墓伝承では、夜になると現れる恋人の姿をひと目見たいと思った倭迹迹日百襲姫命は、その気持ちを伝える。すると恋人は、翌朝に櫛箱の中を見るがよいと告げた。だが、その姿を見て驚いてはいけないとも言った。夜が明けて櫛箱を覗くと一匹の子蛇がいた。悲鳴をあげる姫の前に人の姿に戻った大物主神が現れる。姫に驚かれたことを恥じた神は三輪山に帰ってゆく。恋人が三輪山の神であったことを知り、思わず座り込んだ時、陰部に箸が刺さり姫は死んでしまう。亡くなった姫のための墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。その墓は箸墓と呼ばれるようになる。現在、奈良県にある箸墓古墳は卑弥呼の墓とも推定されている。
古代の逢瀬は通い婚であり、夜に男が女の家を訪れる。当時の女性は顔を見られることを恥じたため暗闇の中で契りを結ぶ。男性は垣間見などで女性の顔を知っていることもあるが、『源氏物語』の末摘花のように朝に女性の顔を見て驚くこともある。
夜は神の時間であり昼は人の時間であった。男女の逢瀬は神話の時代に還る行為であるため、神の時間である夜に行われた。そのため、昼に逢瀬をするのは、許されないことであった。
現代でも昼にデートをして、夜に契りを交わすのが普通と思われている。昼日中から男女が契りを結ぶのは、呆れた行為と認識されている。昼間の情事は、訳ありの二人とも見なされてしまうだろう。
大学時代、友人とその恋人はお互いに実家暮らしで、しかも夜にアルバイトをしていた。そのため、授業の合間を縫って昼間のホテルで逢引をしていた。実は、少し羨ましかった。そうかと思うとサラリーマンの恋人の仕事が忙しく昼間の数時間しか逢えないという友人もいた。蓋を開けてみれば恋人には家庭があったという。20年も前の話だが、当時の営業マンにはサラリーマンならずサボリーマンなどと呼ばれる要領の良い人種が存在していた。昼間から何をやっているのだか。昼の逢瀬はやはり訳ありなのだろうか。
沈丁や夜でなければ逢へぬひと 五所平之助
作者の五所平之助は、映画監督。久保田万太郎に師事し作句に励んだ。恋愛映画も撮影した作者の抒情溢れる一句である。
沈丁花は、昼夜となく匂うが夜は特に匂うように感じられる。〈夜でなければ逢へぬひと〉とは、どのような恋人であろう。映画監督というフィルターがあるため銀座の女性などを想像してしまう。夜にしか逢えない淋しさが伝わってくる当該句。本当は昼間の普段着の姿でデートをしたかったのではないだろうか。
もしくは、女性から「あなたは夜にしか逢えない人ですね」と言われたのかもしれない。古代においては夜にしか逢えないのは当たり前であったが、現代では休日の昼間に手を繋いでデートをしてみたいものである。夜にしか逢ってくれない恋人は、私の肉体だけが目当てなのかと言われてもおかしくはないのだ。
沈丁花は、鬱々とした匂いを放つ花である。夜にしか逢えない淋しさを訴えているのは、作者自身であろう。昼の街角でふと匂った沈丁花は、恋しき人の匂いを思わせた。春空の下、手を繋いで正々堂々と歩けない夜だけの恋人。男性にもそんな淋しさがあるのかと思った時、五所平之助の映画にどっぷりと嵌まっていた。
松竹、大映、東宝などの映画界を渡り歩いた作者は、自分の撮りたい映画を何本撮れたのであろうか。所属している会社の意向を汲み、興行成績を上げるために自分の意図を変えることもあったであろう。そんな境遇のなかで出会った俳句。それは何物にも縛られない自由な自己表現の場であったろう。だが、どこまでもサービス精神旺盛な作者にとっては、俳句もまた映画の続きだったと思われる。だけれども創作者である以上、主張したいことは、必ず残すのである。それは、「昼間に見せる素顔で逢いたい」という主張なのかもしれない。
(篠崎央子)
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
>>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな 大木孝子
>>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま 日野草城
>>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
>>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー 古賀まり子
>>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ 河野多希女
>>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり 柿本多映
>>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空 黛まどか
>>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋 西東三鬼
>>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物 加藤郁乎
>>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈 尾崎放哉
>>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人 なつはづき
>>〔24〕火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
>>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇 新海あぐり
>>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な 遠山陽子
>>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰 文挾夫佐恵
>>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市 久保田万太郎
>>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか 竹岡一郎
>>〔18〕雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
>>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実 保坂敏子
>>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中 鷲谷七菜子
>>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの 岩永佐保
>>〔13〕嫁がねば長き青春青蜜柑 大橋敦子
>>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女 八木三日女
>>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草 深谷雄大
>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅 森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴 河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として 谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す 池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水 瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る 品川鈴子
>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ 小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す 能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく 鍵和田秞子
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】