握れば冷たい個人の鍵と富士宮 平田修【季語=冷たい(冬)】


握れば冷たい個人の鍵と富士宮

平田修
(『闇の歌』昭和六十年ごろ)

多くの鍵は金属から出来ている。古くは鉄製が多かったろうが、今では洋白とよばれる合金がよく用いられる。鍵屋さんなどで複製する場合には、真鍮で鍵を作ることも多いだろう。これら金属は、概して熱伝導率が(日常で触れる木や布といった他の物質に比べて)高い。したがって、しばらく触れていないでいるとすぐに冷たくなってしまう。

扉を開ける時に鍵を握れば、それはきっと冷たい。それはわずかに感じられるほどの冷たさだが、確かにいっとき手を冷やすほどの冷たさでもある。冷たさを感じながら錠を回し開ける。解錠が済む頃には、手の熱で鍵は人肌ほどの温かさになっているだろう。鍵の温度が自らの手のそれに近づく時、鍵は徐々にその輪郭を失っていく。鍵は、今日の役目を終えたことをその温度で示すのである。

そしてこれは、「個人の」鍵である。自宅の鍵か、自転車の鍵か。あるいは愛車の鍵などは特に「個人の」鍵であるという感がするだろう。では、個人に相対する概念の鍵とはなんだろう?「団体の」「共同の」「社会の」鍵といったところか。都心の矮小な賃金労働者であるところの僕などは、会社の鍵を思った(ちなみに、僕のオフィスの鍵は真鍮製だが、青い。上司は赤の、同僚は黒の鍵を持っている)。個人の鍵がパーソナルな場所へ”入っていく”ためのアイテムであるのに対して、共同の鍵は空間や道具を共同体へと”開放する”ためのアイテムである。同じ性質を持つ物体が、まったく異なる役割を演じる面白みの示唆がこの「個人の鍵」にはある。

富士宮は平田の出生地。のちに小田原へ移り住んだ平田だが、富士宮の地は彼にとって唯一の故郷であった。釣りをするために富士宮の川へ行くこともしばしばであったという。

この句は、「久しぶりに富士宮に帰ってきて、実家の鍵を開けました」というおはなしではない。富士宮に帰ったにも関わらずついぞ開けられなかった実家の鍵か、あるいはそもそも全く違う土地で鍵を握りしめながら富士宮を思ったのであろう。つまりここで握りしめられた鍵は、「錠を開ける」というその役割を果たすことなく消失したのだ。いま脳は手からの電気信号と富士宮の風景だけを純にうつし取る媒体となり、鍵の温度も風景も消え去ったあとに残るのは立ち尽くす己の肉体だけである。小さな鍵ひとつを頼るには、遠い故郷であった。



さて。以後、角川『俳句』9月号に掲載された板倉ケンタ氏による時評「文法持論」をきっかけとした一連の話題に触れる。週末ゴシップまとめおじさんになるのは不本意なため、今回は一句鑑賞を前に置いた。前回同様、一句鑑賞のみを読みたい方は以後の文章を無視されたい。

今回は、一連の事象を詳細に整理・解説することは避ける。具体的な当事者が存在する中で、その一方または双方あるいはその他の組織・人物に対する論理攻撃が目的ではないからだ。とはいえ、状況を掴めていない人に一切の説明を欠くのもまた不適当だろう。ということで今回は、

流れの概略→「良かったこと」→「悪かったこと」→「今後に向けて」

という構成で書き進めたい。

【概略】

本件は板倉が時評の中で第12回俳句四季新人賞選考会における選考委員であった井上弘美氏の発言を引き合いに出し、その問題点を批判するとともに、その井上発言の対象となった作品の作者である山口遼也氏の反応に疑問を呈したことをきっかけとする。

その後板倉氏は自身のnoteで「まる裏現代俳句時評」と題した文章を公開。その中で再度前述の問題に触れ、そこに対して山口氏本人やその他多数の俳人よりTwitter上での反応があった。

なお、「まる裏」の一部内容は2024年9月22日現在、削除(非表示)されている。

【良かったこと】

・月間総合誌という媒体に対するレスポンスの活性化

月刊誌は当然、一ヶ月に一度刊行される。そのため、紙面で取り上げられた何らかの議題に対して反応があった場合、書き手が再度そこに言及できる機会はひと月後を待たなければならない。

時評の書き手本人である板倉氏が「まる裏」と題して月刊誌で提示された話題を補足し、さらなる議論を促すという流れは非常に良いものだと感じた。良いというか、現代のスピード感と合致している。

・「取り合わせ」に関する多様な意見の観測

当該noteでは、前半部に例の「俳句四季」問題、後半部に「取り合わせ」という概念や「や」という切れ字に対する問題提起という構成になっている。そのうち後者についてTwitterでは多くの俳人が多くの俳人が反応し、中には見ごたえのある意見も見られた。特に柳元佑太氏の俳句史における言語的位相/遠近法的位相という観点からの指摘は示唆に富んだ。

【悪かったこと】

・結果として「問題」のようになってしまった書きぶり

時評や評論で書き手が特定の作家に言及する際、その内容が批判的になることに一切の問題はない。ただし本件において、noteの書きぶりに対して反感のコメントも見られた。特に、当該文章が帯びるホモソーシャル的な攻撃性に嫌悪感を示す人が多かったように思う。

反感を買う書きぶり自体に問題はないと思う立場だが、結果としてそこに対する反応が強すぎるあまり本質的な議論に至らなかった(事実、きっかけとなった俳句四季新人賞選考会への言及はほとんど見られなかった)という点をふまえると、もう少し気の利いたアジテーションになったのではないか。

加えて、件のnoteは二部構成となっていたわけだが、後半の「取り合わせ」論にはやや紙幅の不足を感じた。氏の意見がどうこうという話ではなく、読者の力点が分散してしまったことにもったいなさを感じた。そちらに関しては、氏よりどこかで改めて話を聞ける日を楽しみにしている。

・反応(反論)の分量不足

先程から「反応」として扱っているもののほとんどは、Twitter上での発言(=ツイート)である。それは引用や返信の形で直接向けられるものもあれば、各々のつぶやきという形で表出するものもあった。それは良いとして、総じて言えることは、分量が少なすぎるということである。ある文章に強い嫌悪感を覚え、その不快と抗議を表明せんとするとき、場としてのTwitterはあまりに簡素である。論の問題を指摘するという行為には、論がいかに問題であるかを抽出し、その問題性を解消する新たな論や切り口の異なる意見を以って再度問いかけるというプロセスが必要である。それらをこなすのに、140字は短すぎる。

あなたが文章を批判する時、あなたは極めて論理的でならなければならないし、あなたはその整然さを発揮するのに十分な場を用意しなければならないのだ。

・反応における内容のズレ

さまざまな反応の中で、違和感を感じたものが二つあった。それは、

「名指しの批判は他者を傷つける(ゆえに不適切である、あるいは反撃の覚悟なくするべきでない)」

というものと、

「挑発的な言動とそれに対するアンサーは一定以上に深い関係性のもとで行われるべきであり、突然(面識のない)人に投げかけるのは単なる攻撃である」

というものである。一つずつ話す。

まず前者。はっきり言えば、名指しの批判は他者を傷つけるものではない。仮に傷ついた人がいたならば、それはやり方を間違えただけである。また、覚悟なくするな、という点に関しては同意するが、今回のケースで言えば、板倉氏はそうした覚悟を十二分に持ち合わせた人物であることに異論は無いだろう。

次に後者。これについては同意する部分もある。が、仮に若干の拡大解釈を加えた場合、仲の良い人にしか名指しのアクションをしてはいけないのか、という事になろう。むしろ、知人と示し合わせたように書かれた演舞のような論争こそ興醒めである。面識があろうとなかろうと、適切な手続きを踏みさえすれば、力強く批判して良いのである。そして、あなたがそれを間違っていると思ったならば、あなたも力強く批判すれば良いのだ。

【今後に向けて】

何度でも言うが、僕は「みんなもっとノーガードで殴り合おうぜ!誹謗中傷もやむなし!」などと言っているわけではない。危惧しているのはただ一つ、論壇の萎縮である。今回(あくまで結果として)noteの一部が削除されたことは非常に残念であった。論の本質と関係ない部分で論が無碍にされる事ほど悲しいものはない。

とはいえ、本当に加害性の強い言論を野放しにしてはいけないという点で線引きが難しい部分は実際ある。これは俳句に限らず、現代のあらゆる表現、そして言論空間が抱える課題といえるだろう。そういう時代に生きている以上、僕もあなたも当事者だ。読み、書き、問いかけ、答えていきましょうよ。これからの言論空間を、そして俳壇を作っていくのは、他でもない僕たちなんですから。

細村星一郎


【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。



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