硝子扉の中
我部敬子
(「銀漢」同人)
私が銀漢亭を初めて訪れたのは、開店後1年くらいの頃で、「春耕」の句会の後だったと思う。当時は真ん中にも小さなテーブルがあり、カフェのような明るさがあった。店は賑わい、ギャルソンエプロンの伊那男先生がきびきびと動き回っていらした。
数年後の平成22年、武田花果さんから創立間近の銀漢俳句会に誘われ、銀漢亭が身近になった。とはいえ一人で入る度胸はなく、何かの集まりでお邪魔する程度だったのだが。
お店では、お祝い事や送別会、出版祝賀会まで、あの鰻の寝床のようなスペースで行われた。伊那男先生の小料理屋風に丁寧に作られた料理はどれもおいしかった。趣向を凝らした様々な句会も頻繁に運営され、座る場所がなくて立ちっぱなしでも過ごせる元気な俳人たちに感心させられた。
その中で特に印象に残っているのが湯島句会である。私は28回目(平成22年5月)から参加。伊那男先生や朝妻力先生ををはじめ、岸本尚毅氏、櫂未知子氏、対馬康子氏、水内慶太氏、山田真砂年氏といった錚々たる俳人や新進作家と句座を共にできる超結社の夢のような句会であった。混み合った店内は熱気に包まれ、何かの力にぐいぐいと引っ張られるかのように会は進んだ。締切があるからと仕方なく俳句を作っていた身には、大きな刺激となった。
22年10月はニューヨーク在住の月野ぽぽなさんが、現代俳句新人賞受賞のため帰国中初参加され、一層盛り上がった。
母国語は日だまりのやう小鳥くる
この日の最高点を取ったぽぽなさんの句が披講されると響動きが起こった。誰もが一時帰国をされていた作者の心情に深く共鳴したのであろう。今も忘れることができない一句である。
奇しくもこのセクトポクリットの管理者である堀切克洋さんもこの日湯島句会に初めて出席し、この句に出会ったと何かに書かれていた。湯島句会の参加者からは多くの若い作家が輩出し活躍されている。
残念ながら句会は25年に幕を閉じ、銀漢亭もコロナ禍で令和2年に閉店を余儀なくされた。
常連客にはなれなかったが、私は寺門の扁額のような緑色の看板と、灯の灯った硝子扉の向こうを眺めるのが好きであった。重い硝子の扉の向こうには伊那男先生が築かれた仕事場と、かけがえのない居場所がある。そしてお客さんにとっても大層居心地のよい楽しい居場所である……。 もうお店の形は消えてしまったが、私の脳裏には硝子扉の中で繰り広げられた宴の幻影が、今でも走馬灯のように駆け巡るのである。
【執筆者プロフィール】
我部敬子(がべ・けいこ)
愛媛県出身
「銀漢」同人
『衣の歳時記』東京四季出版
【神保町に銀漢亭があったころリターンズ・バックナンバー】
【17】三代川次郎(「春耕」「銀漢」「雲の峰」同人)「関西にもいた銀漢亭のファンたち」
【16】寺澤佐和子(「磁石」同人)「夢の時間」
【スピンオフ】田中泥炭「ホヤケン」【特別寄稿】
【15】上野犀行(「田」)「誰も知らない私のことも」
【14】野村茶鳥(屋根裏バル鱗kokera店主)「そこはとんでもなく煌びやかな社交場だった」
【13】久留島元(関西現代俳句協会青年部長)「麒麟さんと」
【12】飛鳥蘭(「銀漢」同人)「私と神保町ーそして銀漢亭」
【11】吉田林檎(「知音」同人)「銀漢亭なう!」
【10】辻本芙紗(「銀漢」同人)「短冊」
【9】小田島渚(「銀漢」「小熊座」同人)「いや重け吉事」
【8】金井硯児(「銀漢」同人)「心の中の書」
【7】中島凌雲(「銀漢」同人)「早仕舞い」
【6】宇志やまと(「銀漢」同人)「伊那男という名前」
【5】坂口晴子(「銀漢」同人)「大人の遊び・長崎から」
【4】津田卓(「銀漢」同人・「雛句会」幹事)「雛句会は永遠に」
【3】武田花果(「銀漢」「春耕」同人)「梶の葉句会のこと」
【2】戸矢一斗(「銀漢」同人)「「銀漢亭日録」のこと」
【1】高部務(作家)「酔いどれの受け皿だった銀漢亭」