ひまわりを咲かせて淋しとはどういうこと
平田修
(『白痴』1995年ごろ)
先週は〈前すっぽと抜けて体ごと桃咲く気分〉という句を扱った。せっかくなので、季節を無視して花の句を続けようと思う。今日はひまわりの句。夏である。掲句をビートで読んだとき、頭の「ひまわりを咲かせて淋し」というフレーズから一瞬〈五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉〉を想起する人は多いだろう。しかし掲句は「とはどういうことか」と展開する。気の抜けた感じというか、いわゆるナンセンスの方向に舵を切っているわけだ。ひまわりは言わずと知れた大輪の花。その中心にある黒い部分(管状花というらしい)がよく見れば不気味であるとか、群生しているさまが眩しいといったことはしばしば聞くが、淋しいというのは少し珍しい把握。しかも、当の本人がその出所をわかっていない。実際に淋しいと感じたのだが、何故かはわからない。何故かもわからないし、そもそもこの淋しさを分析したり類型化することすらできていない。ひまわりと見つめ合いながら、得体の知れない淋しさにただただ困惑するのみである。
思えば平田俳句で、掲句のように感情の様態をダイレクトに描写したものは少ない。「ちくしょう」といった怒りの言葉や吹き荒れる風との格闘こそあれ、「悲しい」「苦しい」といった語は滅多に出てこないのである。それゆえか、ふと湧き出てきた「淋しい」という感覚に平田は困惑する。それは人がもともと当然に持つ感情であり、彼の場合はその性格や環境といった何らかの要因からそれが心の内で透明化されていたに過ぎない。すると、いわゆるフロイトの防衛機制に当てはめて考えるならば、淋しさは彼にとってクリティカルなトラウマであり、心の機序から排除すべき感情であるということになる。彼の境涯をほとんど知らない僕がその根源を辿ることはできないし、そのことにあまり意味はないと思うのであえて追及はしないが、こうした「隠されたキーワード」が、平田俳句を読み進める重要な手がかりになると確信している。
(細村星一郎)
【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。
【細村星一郎のバックナンバー】
>>〔41〕前すっぽと抜けて体ごと桃咲く気分 平田修
>>〔40〕青空の蓬の中に白痴見る 平田修
>>〔39〕さくらへ目が行くだけのまた今年 平田修
>>〔38〕まくら木枯らし木枯らしとなってとむらえる 平田修
>>〔37〕木枯らしのこの葉のいちまいでいる 平田修
>>〔36〕十二から冬へ落っこちてそれっきり 平田修
>>〔35〕死に体にするはずが芒を帰る 平田修
>>〔34〕冬の日へ曳かれちくしょうちくしょうこんちくしょう
>>〔33〕切り株に目しんしんと入ってった 平田修
>>〔32〕木枯らし俺の中から出るも又木枯らし 平田修
>>〔31〕日の綿に座れば無職のひとりもいい 平田修
>>〔30〕冬前にして四十五曲げた川赤い 平田修
>>〔29〕俺の血が根っこでつながる寒い川 平田修
>>〔28〕六畳葉っぱの死ねない唇の元気 平田修
>>〔27〕かがみ込めば冷たい水の水六畳 平田修
>>〔26〕青空の黒い少年入ってゆく 平田修
>>〔25〕握れば冷たい個人の鍵と富士宮 平田修
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>>〔21〕裁判所金魚一匹しかをらず 菅波祐太
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>>〔5〕かんぱちも乗せて離島の連絡船 西池みどり
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