ハイクノミカタ

葱白く洗ひたてたるさむさ哉 芭蕉【季語=葱(冬)】


(ねぶか)白く洗ひたてたるさむさ哉)

芭蕉


視覚と聴覚ばかりでない共感覚

 話はいささか堅くなるのだが、フランスの哲学者メルロ=ポンティ(1908〜1961年)はその著作『知覚の現象学』(1945年)の中で、われわれの身体は本来、視覚、触覚、聴覚、味覚、嗅覚の諸感覚(五感)が交流する共通感覚の場であるとし、その交流する現象としての共感覚現象を考察する。

 熊野純彦編『現代哲学の名著』(中央公論新社、2009年)の中のようやく解説(屋良朝彦執筆)によると、それは、われわれの持つ諸感覚が互いに錯綜して絡み合う現象であり、例えば、われわれは単なる比喩的な意味ではなく、音を見たり、色を聞いたりするし、あるいは鉋の刃の堅さや水の流動性やシロップの粘着性が見え、やわらかい音やくすんだ音、乾いた音も聞こえる。光景の空間的感覚は音の時間的感覚になるという。要するに、

  世界は本来的に諸感覚が絡み合い、共存する〈相互感覚的な世界〉(monde intersensoriel(仏))なのである。たとえば、音を消して映画を見た場合、それまでいきいきと演技をしていた俳優の動作がぎこちなく、不自然に見えるであろう。単独的な視覚的世界や聴覚的世界などは事後的に仮構された抽象物にすぎないのである。

 だとするならば共感覚は、これまで見てきたような視覚と聴覚(または聴覚と視覚)の合流によるものばかりでないことは明らかであろう。芭蕉の俳句を俯瞰して見ても、視覚と聴覚の共感覚が最も多いが、そのほかの諸感覚間のものも、探せばすぐ見付かるほどある。次に掲げる「(ふる)音や」句などはその典型で、これは聴覚と味覚の共感覚俳句だ。

  降音や耳もすふ成梅の雨

 梅雨の長雨のとめどなく降る音で、耳までが酸くなる、という句意。青梅の実るこの季節の鬱陶しい感じ・感触などの内感を、「すふ(なる)」(正しくは「すう成」であろう)と詠んだことにより、「耳で味わう」という、諸感覚の総合体である身体からの発露としての共感覚表現になった。メルロ=ポンティという二つの感覚が絡み合い共存する〈相互感覚的な世界〉を形象化、言語化したともいえよう。芭蕉の立場に立てば、「梅の雨」なる季語の、本意・本情をちょっとばかり飛び越えた〈即興感偶〉の句であり、「作者感ずるや句となる所」(『三冊子』)の句、ということになるであろう。

 視覚と聴覚以外の共感覚俳句には、冒頭に掲げた「葱白く」句のような冬の句もある。いうまでもなく視覚と触覚の合流による句。「さむさ」は触覚だけでは割り切れないとの考え方があるかもしれないが、やや単純に、触覚は物に触れたときに起こる感覚で、皮膚にある受容器により触・圧・温・冷・痛の諸感覚を感覚する皮膚感覚を含むものと考えれば、寒さはその対象だといえよう。

 この句、山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(前出)によれば、美濃国垂井(たるい)での作。「葱を洗い立てたそのきわやかな純白さを、一本の棒のように詠み下し、単純さの極地において、『寒さ』の本質を把握した句である」と格調高く鑑賞される。初案は「ねぶかしろく洗ひあげたる寒さかな」だったとも述べているので、「洗ひあげ」→「洗ひたて」と複合動詞を推敲しているところは、先述の「閑さや」句の場合と似通っている。

 この稿の初に述べた「黄色い声」のような色聴や「肚黒い」のような古くからある言い方も、それを言葉にすればすでに比喩(隠喩)であり、共感覚そのものを隠喩(暗喩)、直喩(明喩)、活喩(擬人法)、張喩(誇張法)、声喩(擬声語・擬態語・オノマトペ)のような比喩とともに論ずべきとする説もあることからすれば、この句の確信をなす「白い寒さ」はいったいどういうものか。修辞学の世界には既成の使い古された「夜の帷」「雪の肌」のような語を死んだ隠喩(デッド・メタファー)としてしりぞける厳しさもあるが、それらの点を踏まえて、「白い寒さ」は立派な隠喩だといえよう。

 ともあれ、「洗いたてたる」との引き締まって動かしがたい措辞により、「白さ」から「寒さ」への感覚領域の急転を可能にし、作者の感じた生の詩的真実を的確かつ魅力的に捉え得た隠喩による共感覚俳句である。隠喩はまず第一に新鮮でなければならず、特殊な共感覚体験やそこからの連想に相応しい表現法だといえるが、同時にそのような体験や連想が瑞々しい隠喩を呼び起こすともいえる。そうした関係性あるいは隠喩そのものが、言語芸術の豊饒さへとつながっているのである。

 もうお気付きの方もおられようが、最初の週に取り上げた「海くれて」句の「鴨の声」、そしてこの句の「葱」と、芭蕉はどうやら白の内感にこだわっているらしい。次に掲げる二句も共感覚俳句で、いずれも白が隠喩を呼び起こし、句の核心を担っている。よく知られた「石山の」句は視覚と触覚の共感覚を、「其にほひ」句は嗅覚と視覚の共感覚を踏まえた句で、今週のテーマとした「視覚と聴覚ばかりでない共感覚」の例示、証示ともなろう。改めて味わってほしいところだ。

  石山の石より白し秋の風

  其にほひ桃より白し水仙花

 このように見てくると、私たちがなぜ詩の言葉としての比喩を求め、優れた比喩に出合って感動するのかという、いささか根源的な問いに対する解答が浮かび出てくるようだ。手短にいえば、それは、私たちが日常生活においてもそれと気付かぬままに使っている多数の通信記号としての比喩ではない。いわゆる「喩え言葉」のような比喩(例えば「い」行であれば、「いがぐり頭」「勇み足」「椅子の脚」「痛し痒し」「板挟み」「一夜漬け」などのたぐい)ではなく、それが日常の現実に紛れ込んでいて、まだ誰も手を付けていない詩的真実を炙り出し、摑み取ってくる比喩だからなのだ。

 さらに敷衍すれば、比喩に寄らなくても伝えることができる声象をわざわざ装飾的に比喩にするような比喩、現実の事象をただなぞって再現しているに過ぎないような比喩、主として言葉の経済性だけから短縮して日常の利便性を益するための比喩、などではなく、比喩によらなければ結局のところ把握も伝達(表現)もできずに消え失せてしまう事象や内感を、しっかりと摑み出して伝える、そういう創造的な比喩だからこその感動なのだ。

 芭蕉の共感覚俳句が端的に物語っているのもそこである。すでに取り上げてきた芭蕉の共感覚俳句がそうであるように、この稿の次回で列挙することになるその句群のほどんとが隠喩を核心にしていることを見れば、さらに納得されることであろう。いまや世界に冠たる短詩型の言語芸術とされる俳句が、芭蕉の共感覚俳句によって評価を高め、その地位が補強されているのだとすれば、言語芸術の更なる豊饒さを希求する私たちにとって、メルロ=ポンティの次のような論考の展開は、まさに刺激的だ。

 前出『現代哲学の名著』の中で執筆者の屋良は、主体としての身体の考察から共感覚という現象が解明されたが、それによると、世界を知覚することは、身体においてあらゆる感覚が交流し、主体と客体、精神と身体が共存し交流する場として、身体は「共通感覚」の場なのだ、と念を押したうえで、その要約解説を次のように結んでいるのである。

 ところで、画家は果物の甘い香りや農夫の手にするクワの重さを画布に描き出すことができるが、それは、画家がこうした共通感覚に知悉しているからである。画家は諸感覚とのなまな交流に没頭することによって、対象の真の経験を取り戻す。それは主ー客の対立を超え、能動ー受動の対立を超えた、ある両犠牲の経験なのである。

 さて、このような経験は、世界が世界が汲みつくしえない豊饒さを有しているということを証示するものである。

 その時である。夕食後の緑茶を飲みながら私は卓上に書物を開き、ここに掲げたこの引用文の箇所に目を通して、引用の適否を確認していたのだが、とつぜん、「コーヒーの匂がする」という妻の呟くような声が耳に入った。同じ卓の向こう側に座した妻が、夕刊を広げているのが見えた。妻が飲んでいるのも緑茶だったので、私はちょっと驚いて立ち上がった。覗いて見た夕刊(2021年11月2日付「朝日新聞」2面上段の「美の履歴書」欄)に掲載されていたのは、フィンセント・ファン・ゴッホの、ほとんど黒一色の素描「コーヒーを飲む老人」であった

 まだオランダ時代のエチュードだが、粗くて的確なタッチにはゴッホ独特の力がある。養老院住まいらしい老人が小さな木椅子に腰を掛け、手前にいかつい靴を二つ突き出し、俯き加減の少し屈めた身に、大事なものを抱え込むようにして白いカップのコーヒーを啜っている。老人の、そんな風姿の中に嵌り込んでしまったようなコーヒーからは、匂ばかりか温みが立ちのぼる。元農夫らしい太く力強い手指で、抓みではないところをしっかりと支え持たれたそのカップからは、微妙な手応えの重さまでが伝わってくる。

 ゴッホが画家になる決意をしてまだ間もなく、何よりも素描の習熟が大事と痛感していた時代の一枚。後年あの激しくうねる筆触も鮮烈な色彩もない、水彩紙と鉛筆による習作なのにもかかわらず、黒の濃淡を生む勢いのある線と、その集積から浮かび出る浮かび出る人物実体の存在感は、すでにして単なる事実の再生を超え、絵画として訴えるべきものを訴えようとするゴッホの情熱と、内面の豊饒さを、紛れもなく示唆している。

望月清彦


【執筆者プロフィール】
望月清彦(もちづき・きよひこ)
1935年東京都三鷹市生まれ。東京都在住。俳誌「百鳥」同人。総合誌「中央線」同人。1990年俳誌「裸子」年度賞・身延山賞、2008年角川書店賞、2011年毎日俳壇賞、2012年読売俳壇年間賞、2013年朝日俳壇賞、2020年読売俳壇年間賞受賞。同年NHK全国俳句大会龍太賞入選、2021年同龍太賞入選。句集『遠泳』(読売俳句叢書第Ⅰ期第2集)現在『読売年鑑』文学分野載録俳人、俳人協会会員。



【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】

>>〔1〕海くれて鴨のこゑほのかに白し      芭蕉
>>〔2〕木枯やたけにかくれてしづまりぬ    芭蕉

【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】

>>〔1〕秋灯机の上の幾山河        吉屋信子
>>〔2〕息ながきパイプオルガン底冷えす 津川絵理子

【2021年10月の火曜日☆千々和恵美子のバックナンバー】

>>〔1〕橡の実のつぶて颪や豊前坊     杉田久女
>>〔2〕鶴の来るために大空あけて待つ  後藤比奈夫
>>〔3〕どつさりと菊着せられて切腹す   仙田洋子
>>〔4〕藁の栓してみちのくの濁酒     山口青邨

【2021年10月の水曜日☆小田島渚のバックナンバー】

>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり   夏目漱石
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔3〕嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計 赤尾兜子
>>〔4〕野分吾が鼻孔を出でて遊ぶかな   永田耕衣


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