やがてわが真中を通る雪解川 正木ゆう子【季語=雪解川(春)】


やがてわが真中を通る雪解川

正木ゆう子


句の細部に目が留まる前に、言葉の調子で読ませきってしまうようなところがある。言葉ひとつひとつを丹念に読みにかかる前に魅了してしまうというのは、やはり凄みがある。

斎藤史に「落日の石狩川は燃えながら少女のわれの中を流れき」という歌がある。「わが真中」と「少女のわれの中」は、それほど遠くないように思えるけれど、正木の句と斎藤の歌では手触りがかなり違う。斎藤の歌は「少女のわれ」を追憶の存在として対象化しているぶん、正木の句よりややノスタルジックな印象があり、その分リアルさもそのくらいに収まる感じがある。一方、正木の句は「雪解川」が眼前にあるようなリアルさ(無論、あるとも読めるわけだし、というか、多くの俳人は一句に詠み込まれた季語を眼前にあるものとして読むように思う。仮に歌人の読みが「私」を歌のコアに据える傾向があるとするならば、俳人は「季語」を読みのコアに据える傾向がある。季語は他の言葉よりも重みのある詩語という考えからいけば、やはり眼前にあるリアルなものと想定して読むだろう。また、「やがて」という措辞も眼前にある印象の一助となっている)によって「われ」が支えられている。そういうリアルさを担保する「雪解川」を「中」ではなく「真中」という言葉が引き受けたことにより、「われ」に中心点が立ち現れ、肉づいた印象が誘発されている。

この句には「われ」とは書かれているけれど、この「われ」にはそれほど手応えが感じられない。「われ」よりも「雪解川」の方がリアルというのは、やはり不思議である。ひどく冷たく厳しく輝かしい「雪解川」が、時期に「われ」の「真中」を流れる予感。そういう予感、あるいは予感の確信が述べられている。そして、その予感される「やがて」が今よりも「真実」であるように感じられる。私はあまり納得した試しがないのだが、こういうところから自然との一体化とか、巫女的なエロチシズムとか、そういう方向に読みを持っていく場合も多い。

山口優夢の「心臓はひかりを知らず雪解川」や神野紗希の「一字違いの子宮と地球雪解川」なども、この句の「雪解川」と近い付き筋である。自らの内側を空間的に捉える把握やその内側の暗さと「雪解川」の明るさとの関係。また、これらの句を思い出すとき、池田澄子の「ピーマン切って中を明るくしてあげた」も一緒に連想される。

安里琉太


【執筆者プロフィール】
安里琉太(あさと・りゅうた)
1994年沖縄県生まれ。「銀化」「群青」「」同人。句集に『式日』(左右社・2020年)。 同書により、第44回俳人協会新人賞


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



安里琉太のバックナンバー】

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