啜り泣く浅蜊のために灯を消せよ 磯貝碧蹄館【季語=浅蜊(春)】


啜り泣く浅蜊のために灯を消せよ

磯貝碧蹄館
(『道化』)

浅蜊は、春の季語である。桜貝が海辺を染める頃より採られ始める。母方の実家が茨城県の大洗近くであったため、ゴールデンウイークには潮干狩に出掛けた。まだ硬さの残る風を受けながら、海水に足を浸すと意外にも温かい。晩春の陽射しが濡らす浜辺は、生命力に満ちていて、波がひいた砂はぶつぶつと気泡を吐いていた。砂が囁いている場所に浅蜊は潜んでいる。指をさすと、砂の奥は少々冷たい。中指にコツリと浅蜊の先端が当たる。道具を使わない原始的な採り方が好きだった。貝の表面は艶やかなのもあれば、ザラザラしているのもある。波模様の柄が砂のつぶやきを模写しているように見えた。

浅蜊は砂抜きに一晩かかる。塩水に浸された桶の浅蜊を飽きることなく眺めた。母が「浅蜊は砂の中と同じように暗くしないと、砂を吐かないの。もう寝なさい」と言われるまで。夜中に手洗いに起きると、厨房の隅より浅蜊が砂を吐く声が聞こえた。それは、啜り泣く声というよりは、父母の寝室から漏れる囁き声に似ていた。聞いてはいけない暗闇から漏れる声である。

小学生の高学年の頃、バスケットの選手に選ばれなかったことがあった。身長の低さが原因だった。ドリブルは誰よりも早く跳躍力もあったのに。悔しくて部屋で泣いていると、母が電気を消した。慰める言葉が見付からなかったのか、そっとしておこうと思ったのか。確かに同情されればさらに傷か深くなる。「頑張ったのに残念だったね」という言葉を掛けなかった母の気遣いが嬉しかった。

バスケットボールは、浅蜊の表面に似ている。新しいボールはザラザラしていて、ドリブルをするとキュッキュッと音を立てる。使いこなしているうちに表面が艶を帯び、手触りも滑らかになる。ボール籠に入れられて暗い体育倉庫で眠る姿も浅蜊のようだ。そう考えたら、選手に選ばれなかったことはどうでも良くなった。

啜り泣いている人にどう声を掛けて良いのか分からないことは、誰しも体験したことがあるのだろう。二十代半ばの頃、同志のような存在の男友達がいた。野心家で頑固な性格が私と似ていた。同じ部屋で泥酔してごろ寝しても何も起こらない気楽な関係であった。そんな彼が交際したのは、年下の従順そうな女の子。「あなたみたいなプライドの高い男と交際してくれる女の子がこの地上に存在しているだけで奇跡よ」と応援していた。「とにかく化粧っけのない子で気も利かないし。俺が口説かなかったら永遠に彼氏ができないようなタイプの子さ」とは言いつつも、高級料理店に連れていったり、ブランド服を買ってあげたりしていた。ようは自分好みの女性に育てたかったのだろう。その彼女が交際3年目のバレンタインデーの頃より元気がなくなったという。夜中に泣いていることもあったが、手料理に文句をつけたからだろうと思ったらしい。「彼女の話もちゃんと聞いてあげなさい」と助言したのだが「そういうの面倒なんだ」との答え。彼は受験生の時に、5歳年上の姉が恋人に振られて帰ってきて、一晩中泣いている声を聞いていた過去があった。自分よりも強い存在であった姉が失恋して泣いている声をどうしようもなく隣の部屋で聞いていたことがトラウマになったらしい。それ以来、女性に対する不幸幻想なるものと不幸にしてみたい願望が芽生えたとか。理解しがたい思考回路に科学反応が起きたのは、桜が若葉を噴き始めた頃。

 「俺、プロポーズしようと思うんだ。あの子は俺に惚れ過ぎていて、このままだと仕事も辞めてしまうかもしれないし、もしかしたら自殺してしまうかもしれない」「また夜中に泣いていたの?」「あれから、何かとすぐ泣くんだ。理由も言わないし。多分、俺のせいだ」。かくしてゴールデンウイークに向けてプロポーズ大作戦が始まった。はずだったのだが。立夏間近の夜に彼から「振られたから飲もう」と電話が掛かってきた。呼び出されて行った場所はカラオケボックス。失恋の曲が沢山予約してあり、メロディーだけが流れていた。「メールで別れたいと言われたんだ。会社の同僚の男と関係を持ってしまったみたいで、そいつと結婚も考えているんだとさ」「だから夜中に泣いてたんだ」。彼のトラウマも不幸だが、理解不能な自惚れの高さで突っ走ったことが一番の不幸だ。「自分の話ばかり押し付けないで、彼女の話もちゃんと聞けばよかったのに」とか「あなたのプライドの高さが彼女を傷つけていたのよ」とか、言いたい事はあったが告げることはしなかった。泣いている彼のために照明を消して失恋ソングをひたすら歌った。

 その後も彼は、自分より立場の弱そうな女の子と付き合っては振られて泣いていた。なのに、私が失恋して泣いていると「男に弄ばれてやんの。バーカ」と言う。泣いている人にどう対応したらよいのかは、いまだに分からない。灯りを消すことも、バーカと言うことも正しい答えなのだ。

啜り泣く浅利のために灯を消せよ
磯貝碧蹄館
(『道化』)

作者は、大正13年生まれ。十代の頃から川柳と自由律俳句を学んだ。30歳の時、「萬緑」に入会し中村草田男に師事。角川俳句賞、俳人協会賞を経て「握手」を創刊し主宰。平成25年、89歳で死去。郵便局員であったため〈賀状完配われ日輪に相対す 碧蹄館〉〈台風圏飛ばさぬ葉書飛ばさぬ帽 碧蹄館〉などの職業俳句を詠んだ。一方で〈ジーパンをはき半処女や秋刀魚焼く 碧蹄館〉〈現在も稚拙な愛なり氷菓を木の匙に 碧蹄館〉という客観的な性愛の句も残す。

掲句は、恋の句ではない。だが〈啜り泣く〉や〈灯を消せ〉という表現が恋の物語を想起させる。浅蜊が砂を吐く時の水っぽい音を啜り泣く声として捉えた発想の背景を考えずにはいられない。砂を吐かせるために消す灯りも寝床を思わせる。貝の隙間より伸びる舌にはエロスがある。

派遣社員のアイさんは、ある時上司のミスを被って始末書を書かされた。帰り際に、若手男性社員のゴウさんがエレベーターに乗り込んできて「あれは君のミスではない。理不尽すぎるよ。力になれなくてごめん」と言ってきた。その瞬間、涙が溢れて止まらなくなってしまった。「やっぱり俺、抗議するよ。納得できない」というゴウさんを引き留めて「もういいの。飲みに行きましょう」と誘った。居酒屋で自分以上に怒っているゴウさんにつられ、酒をあおった。深夜の路上で「あの上司許さん」と叫んだことまでは覚えているのだが、目を覚ますとゴウさんの部屋のベッドにいた。そこから何となく交際が始まった。淡い未来を夢見た夜もあった。確かな約束もないまま迎えた八十八夜に思わぬことを告げられる。「俺、実は故郷に婚約者がいるんだ。君と過ごす時間があまりにも楽しくて言い出せなかった。婚約破棄も考えたけれど、君と関係を結んだときにはすでに全てが動き始めていて、どうにもならなかった。来週、彼女が引っ越してくる」。しばらく言葉が出なかった。朝食のために買った浅蜊がしゅうしゅうと音をたてた。「ひどい。あの朝に言うべき話でしょ。無かったことにしてくれって」「ごめん。本社に移ってきた時から君が好きだった。でも婚約者とは別れられなかった。本当にごめん」。ふいにエレベーターまで追いかけてきてくれた、あの日のことを思い出した。とめどなく涙が溢れた。ゴウさんは、アイさんの涙を拭い、髪を撫で、キスをした。最後の夜は激しかった。朧月が射す部屋で、何度も泣いた。翌朝、ゴウさんが眠っている間に帰った。流し台の浅蜊が長い舌を出していた。

「ユーミンの真珠のピアスの歌詞の意味が理解できないってよく言ってたわよね」と別の会社に勤務し始めたアイさんが言った。「分からないわよ。高台の部屋に住もうと約束していたのに、なぜ他の女と暮らすことになるの?」と私は答えた。「そういうこともあるのよ。私が会社を辞める時にゴウさんがくれたの。真珠のピアスを」「今から彼のベッドの下に捨ててきなさいよ」。アイさんは、耳の真珠を揺すりながら少し笑った。「浅蜊にも時々、真珠ができるんですって」「あなたが、ゴウさんのために買った浅蜊はちゃんと味噌汁になったのかしら」「知らないわよ。でも真珠は失恋した人魚の涙なの」「バーカ。そうやって失恋に酔っていれば」。泣きだしたアイさんに「バーカ」を繰り返すしかなかった。暗闇で啜り泣く浅利が真珠を生み出すこともあるのかと想像したら、理不尽な失恋もまた美しく思えた。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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