春林をわれ落涙のごとく出る 阿部青鞋【季語=春林(春)】


春林をわれ落涙のごとく出る

阿部青鞋


近所の書店が阿部青鞋の俳句全集を先行販売しているという噂が流れて来た。よく売れているらしい。へぇぇ、ってんで予備知識もないまま、興味本位で先日昼食がてらに寄ってみた。

全集というから相当値の張るものと思いきや、3300円のコンパクトなペーパーバック版。手に取りやすい装丁と手頃な価格につられて買うことにしました。100冊買い入れて既に60冊以上売れているというから驚いた。世に青鞋のファンは尽きまじ。

掲句は昭和16年に刊行された『現代名俳句集』に収録された『武蔵野抄』の一句。最も初期の作品だ。「冷蔵庫に入らうとする赤ん坊」や「聖堂へ嘔吐のやうな虹が出る」など、日々の雑感やよしなしごとを大胆な省略や突拍子もない比喩で俳句にしてのけた人としてのイメージを持っていたけれど、『武蔵野抄』には、妻とのつましい生活がいささか私小説めいた手つきで描かれているのが意外だった。とは言え、どこかアブノーマルな表現はスタート時点から特徴的だ。

木々が芽吹きを迎える頃、林は淡い緑に包まれる。地には下草が萌え、高枝のどこからか鳥の鳴声が降る。そんな優しげな春の林から歩き去る自分の姿を落涙に喩えた。「涙のごとく」ならまだ解釈の足掛かりがあるが、「落涙」は「涙をこぼすこと」だから、よく考えると難解な直喩だ。涙が大きく盛り上がって下瞼の縁を乗り越えるように、林が散歩者を出口から押し出したのだろうか。(そういえば、映画『ミクロの決死圏』ではミクロ化して患者の体内に入り込んだ科学者たちが最後は涙に乗って脱出したんだっけ。)

結語が「去る」だったら、春と涙と相俟って読後感には湿度や粘度があっただろう。「出る」の切れ味が甘さを振り払っているところにも注目しておきたい。

『暁光堂俳句文庫 阿部青鞋俳句全集』暁光堂 2021年より)

太田うさぎ


【太田うさぎのバックナンバー】
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【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』



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