ひそひそと四万六千日の猫 菊田一平【季語=四万六千日(夏)】


ひそひそと四万六千日の猫

菊田一平


今日、七月十日は四万六千日。観世音菩薩の結縁日ということで、この日に観音様にお参りすると四万六千日分の功徳があるのだとか。四万六千日を年数に換算すると百二十六年。いくら日本人の平均寿命が延びたからといってもちょっと気前が良すぎではないか。でも、こうしたちゃっかりとした風習は憎めなくて好きだ。

四万六千日の縁日は各地にあるらしいが、何と言っても東京の浅草寺のそれが有名だ。前日の九日と十日に境内に鬼灯市が立つ。私も仕事帰りの吟行会で何度も訪ねたことがある。立ち並ぶ露店の灯りが夜空を明るくし、売り子が橙色の大きな実をつけた鬼灯の鉢を掲げて声を上げる。蒸し暑さはあるけれど、青々と茂った葉は目に涼しく、下町の夏の風物詩として毎年賑わいを見せる。

掲句はそんな鬼灯市の一コマと見ていいだろう。物陰か寺の裏か、人間界の喧騒をよそに猫がいる。猫は元来ひそやかな生き物だが、<ひそひそと>となるとそこには単なる動態以上の意志が感じられる。猫同士がテレパシーで囁き交わしているのかもしれないし、暗がりに身を潜めて何かを伺っているのかもしれない。そう考えると、鬼灯市という背景はずっと後ろに下がり、<四万六千日の猫>が俄然ミステリアスな存在として浮き彫りになる。46,000日はたったの126年だけれど、なんだかこの猫は4億6千万光年の宇宙空間(というタームは適切でないかもしれないけれど)に偏在しているような気がするのだ。となると、観音様ではなく弥勒の使いに近いのだが。そして、浅草の夜はなかなか懐が深く、不可思議な想像を広げても包み込んでくれそうなのだ。

同じ句集に「東京に四万六千日の雨」も見える。より即物的なこの句の方がもしかしたら作者の本領なのかもしれない。が、ファンタジックな要素を持つ掲句に私はより強く惹かれる。

浅草寺の鬼灯市は去年に続き今年も中止となった。来年は浴衣に下駄を鳴らして冷やかしに行きたいものだ。

『どつどどどどう』角川書店 2002年より)

太田うさぎ


【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』


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