どん底の芒の日常寝るだけでいる 平田修【季語=芒(秋)】

どん底のの日常寝るだけでいる

平田修
(『曼陀羅』1996年ごろ)

ナンバリングとしては最後になる句群『卯月野』がわずか6句から成っていることを思えば、この『曼陀羅』が事実上最後の句群であると言っていいだろう。実はこの連載で平田の特集を始めたときに引用した〈かなしみへけん命になる螢でいる〉という句はこの『曼陀羅』に収録された句であった。それはつまり、平田の句稿を初めて読んだ僕に最も強い印象を残したのが『曼陀羅』という句群であったことの証左にほかならない。これまでの句と比較して、無論彼の芯の部分が大きく変わっているわけではないのだが、句群全体の重心がやや低くなった感覚をおぼえる。これまでの、吹けば消えてしまいそうな不安定さや魂があちこちを行き来するような忙しなさはあまり見られない。有り体に言えば、”作風が固まってきた”ということだろうか(もっとも、不安定さは平田作品の大きな魅力の一つでもあったわけだが)。作風がいったんの完成を見せた句群がほぼ最後の作品集であるというのは皮肉なことのようでもあり、作家としての冥利に尽きることのようでもある。

掲句はこれまで幾度となく使われてきた「芒」の句。『曼陀羅』には他にも、

芒から晴れた死として出るはずだ
芒よりうすい詩を出し晴れている

という2句に芒が用いられている。いずれも不思議な句である。平田作品において、芒はさまざまな役回りを果たす。見つめ合う対象となることもあれば、自分と一体化していることもある。あるいは上に挙げた2句のように何かが出てくるポータルとして、また自分が出入りするフィールドとして立ち現れることもある。掲句は絶妙にどのケースにも当てはまりづらい用法だが、自己の生活という時間間隔に芒が時空のねじれを超えて入り込んで同化しているようにも読める。日常とは生活の上で起こるあらゆる動作や感情の総体であり、芒はそのすべてと対応しているのだ。それがどん底だろうと絶好調だろうと、芒はそうした浮き沈みに依拠することなく常に同じ高さに存在する鏡写しの存在である。掲句の面白みは、インパクトの強い「どん底」という語が実際にはなんの重要性も持っていない点にある。すべては芒と同様に、ふわふわと上下しているにすぎないのだ。


ここのところ妙に、死んだ友人のことを思い出す。思えば彼が死んだのは2022年の2月だったから、ちょうど3年が経ったことになる。不思議なもので、人の脳はリマインダを設定したわけでもないのにこうしてぼんやりと思い出すようにできている。まだネットの海に残っている彼のTwitterアカウントを眺めたりしながら、今日はこんな事があったぜ、とか、今度こんな事するんだぜ、なんてことを勝手に報告したりする。報告なんか勝手にすればいいに決まってるんだけど、やっぱりするからには聞いてほしいのが本音だ。彼がいたら、と思ったことは一度や二度ではない。色々あるけど、やっぱりこの前の忘年会には来てほしかったなぁ……

彼は同い年だった。俳句の世界ではあまり年齢は関係なくて、ただ人と人の間に俳句があるだけであることは言うまでもない。若くしてとんでもなく達者なやつもいるし、いつまで経っても一向に上手くならない年寄りもたくさんいる。それでもそんな人たちが一緒になって酒を飲めるのが俳句の良いところなんだけど、やっぱり高校時代から付き合いのある同い年というのはどこか特別だ。先日ひょんなことから数少ない同い年の俳人3人で飲むことがあった。もっと彼の話になるかと思ったけど、案外それは必要のないもののようだった。「あいつがいたらねぇ」といって一度だけ乾杯をしたあとは、それまでと同じようにくだらない話をしただけだ。もしかしたら3人とも強がってただけかもしれないけど、まあそんなもんだとも思う。会って話すことがあるっていうわけじゃなくて、会いたいだけなんだよなあ、って感じで。

平田の俳句と向き合うとき、それは同時に人が悲しくも成し得てしまう自死という行為と向き合うことを意味する。そして自死に向き合うことは僕にとって、すなわち死んだあいつと向き合うことと同義である。生きていればよかったのかも僕にはわからないし、死んだから偉いとか心に留め置くんだっていうのも違う。なにより死んだあとのどうこうなんてものは全部僕らのエゴであって、取り上げるのも無視するのも言ってしまえば全部が失礼なことだ。だから、うまい言い方じゃないけど、考えても意味がないと最近は思う。「向き合う」という営みは、かならずしもシリアスなことばかりじゃない。とりあえず、また何かあったら報告くらいはしてやろうと思っている。

細村星一郎


【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。



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