夏みかん酢つぱしいまさら純潔など
鈴木しづ子
(『指輪』)
俳壇では数年に一度、鈴木しづ子ブームが訪れる。近年では、2019年に河出文庫から出版された『夏みかん酢つぱしいまさら純潔など』(鈴木しづ子 ・ 川村蘭太著)は、多くの俳人の支持を得た。本書は、『春雷』『指環』の二冊の句集と未刊行俳句集成、 川村蘭太氏による「鈴木しづ子追跡」が収められている。それ以前は、1998年から数年にかけて清水哲男氏が「増殖する俳句歳時記」にて鈴木しづ子を取り上げている。2004年には、江宮隆之氏による鈴木しづ子を追った小説『風のささやき』(河出書房新社)が出版された。
鈴木しづ子は、大正8年生まれ。女学校、専門学校を経て製図工の職に就く。当時21歳。その頃より俳句を始め臼田亞浪の俳誌「石楠」に投句し、社内の俳句サークルに参加する。24歳、松村巨湫が主宰する句誌「樹海」に投句し始める。
戦時中に母を亡くし、婚約者の戦死を知る。終戦直後の昭和21年、27歳の頃に第一句集『春雷』を刊行。若い女性の瑞々しい俳句は高い評価を得る。その後、父親が23歳年下の女性と再婚。自身も職場結婚をするが1年余りで解消し岐阜県に移住。
昭和25年、地元のダンスホールのダンサーとなった後、進駐軍向けキャバレーに勤務。そこで出会った黒人の米兵と恋仲となり同棲を始める。だが、彼は1年後の昭和26年に朝鮮戦争に出兵し、麻薬中毒者となり日本に戻ってくる。翌年には祖国のテキサス州に帰還し、死んでしまう。
そのような状況のなかで昭和27年、33歳の時に第二句集『指環』が刊行される。「樹海」の同人仲間たちが、しづ子にほぼ無断で完成させたものだったといわれている。しづ子は出版記念会には姿を現したものの、昭和27年9月15日付の投句を最後に消息不明となる。「樹海」主宰である松村巨湫へ送られていた大量の未発表句は、その後、約十年間にわたり結社誌に掲載され続けた。消息不明となった後も様々な伝説が生まれた。赤線の娼婦となりアルコール中毒のすえ自殺したとか、アメリカに渡ったとか。
俳人としての活躍は、約10年ほどだが、第二句集『指輪』に残る赤裸々な情愛の句は、当時より話題となり、現在もファンが多い。
夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
しづ子が岐阜県に移住した後、ダンサーになり、キャバレーに勤務するようになったのは、生活に窮した末の選択であったと考えられている。当時、進駐軍向けのキャバレーに勤務する女性は、米兵の娼婦であると見なされていた。実際に客を取っていた女性も存在したが、頑なに拒んだ女性も存在した。ただ、キャバレー勤務の女性の多くは、特定のパトロンまたは恋人を持つことで生活の援助を受けていたといわれている。日本人女性は、米兵から人気があった。きめ細やかな白い肌、恥らいのある表情、従順で男性に尽くす性格。現代でも日本人女性は世界の男性の憧れである。一方で米兵は、レディーファーストで優しかったとか、特別な関係は持たなかったが高価なプレゼントを貰ったという証言もある。
しづ子は、初々しさの残る第一句集『春雷』に〈夫ならぬひとによりそふ青嵐 しづ子〉という句があり、恋愛に強い関心を持つ女性であったことが推測されている。そして現存する写真の美貌から察するに言い寄る男性は多かったに違いない。
戦後の占領下の日本において、米兵相手に色気を振りまく仕事をする女性は、非国民、売女、淫乱など、かなりの罵りを受けた。当時の日本人は、黄色人種であるがゆえに、占領軍より差別的な扱いも受けていた。だが、キャバレー勤務となれば米兵より沢山の贈り物を貰い、高い給料で楽な暮らしができたといわれている。
しづ子は、米兵相手に媚びを売る仕事をする一方で、差別や罵りへの葛藤もあったのであろう。黒人兵と恋に落ちたのは必然のように思う。黒人兵もまた祖国を背負いながらも差別を受けてきた傷を持つ。しづ子は強い女性であるがゆえの脆さもあったのだ。その脆さを救ったのが黒人兵だったのかもしれない。
その黒人兵は、しづ子を日本に残し朝鮮戦争へとかり出されてしまう。米兵として給料を貰っている兵士としては当然のことだったのだろうが、肌の色で差別をするアメリカのために何故そこまで命を尽くすのか。それは、兵士としての矜恃だったのか、それとも祖国を愛するがゆえだったのか。
しづ子の戦時中の句で〈東京と生死をちかふ盛夏かな しづ子〉がある。軍国主義教育を受けていた当時の日本国民は皆同じ気持ちであった。お国のために仕事をし、お国のために死ねることが幸せであった。結果的に敗戦し、国は国民を救えなかったのだ。そんな国のためになんの義理立てが必要であろうか。自分に今必要なのは、生きること、愛する人と一緒にいることなのだ。どんなに罵られようとも。なのに恋人は戦地に行ってしまう。
日本人は、男性に限らず女性に処女性を求める。米兵相手のキャバレーで働き、黒人兵と恋仲となり、赤裸々な情愛の句を詠み続けるしづ子には、心ない誹謗中傷が矢のように降りそそぐ。そのような中、詠んだ一句が〈夏みかん酢つぱしいまさら純潔など〉なのではないだろうか。
夏みかんの酸味は舌を刺すが、甘酸っぱい処女性も孕んでいる。しづ子にとって黒人兵への想いは、純情な少女と何も変わらない。この一途な気持ちは、日本を捨てても誇れるほどの純潔な想いなのである。戦時中に日本国に対して誓った志と何も変わらないのである。だが、世間はそのようなしづ子の想いを汲み取ることはなかった。
だから言い放った。「どうせ私は非国民で売女で汚れた女よ」。夏みかんのような純粋さを持っていたからこそ表現できたのである。生きてゆくために、生涯をかけて恋した人のために。〈純潔など〉とっくの昔に捨てたわ。
黒人兵は、朝鮮に出兵した2ヶ月後、麻薬中毒者になって、日本の港に戻ってくる。戦地で何があったのかは分からない。廃人同然で兵士としての機能を失った彼は祖国のテキサス州へと帰っていった。死ぬ前に祖国に戻れただけでも彼にとっては良かったのかもしれない。しづ子のもとに恋人の訃報が届いたのは翌年の昭和27年元旦のことであった。
敗戦国と勝利国のアイデンティティーの違いなのかもしれない。黒人兵は祖国を捨てられなかった。自分を差別する国のために命をかけて闘い、麻薬中毒者になった。それでも祖国へと帰っていく。テキサス州生まれの人は祖国愛が強い。黒人兵は祖国に対して純潔を通したのだ。女性からしてみたら、馬鹿な話である。そんな想いを込めてしづ子の代わりに言ってやる。いまさら純潔など…。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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