退帆のディンギー跳ねぬ春の虹
根岸哲也
いつだったか、バスに乗って、クロード・ルルーシュ監督の『男と女』のロケ地であるドーヴィルに行った。
見わたすかぎり人のいない海に出、板張りの遊歩道をぶらぶらする。季節は冬で、名物のパラソルはおろか、人影さえもない。
と思ったら、遠くの波打ちぎわに白馬の影がみえた。近づくと、たてがみをなびかせ、軽い車を曳いて遊んでいる。軽い車の中には、乗馬服を来た男がひとり。これって飼い犬ならぬ、飼い馬の散歩なのだろうか?
「どう思う?」わたしは夫に言う「馬だよ」
「だね」と夫。
エルメスの広告みたいな光景をぽかんとながめているうちに馬は去っていった。帰ってから調べてみると、わたしたちが出会ったのは近くの競馬場の馬である。調教やら筋肉疲労の緩和やらのために、日常的に海の中を歩かせているらしい。
退帆のディンギー跳ねぬ春の虹 根岸哲也
ディンギーはキャビンをもたない小型の船舶のこと(キャビンがあるものはクルーザーと呼ばれる)。この句はひとつひとつの語がとても生き生きしている。まずディンギーが跳ねるというのがいい。情景的にのみならず、ディンギーという音自体が跳ねている。それから退帆の〈退〉と〈跳〉との字の掛け合わせも周到で、よじれるような波の躍動感が浮き彫りになっている。さらにそこに添えられた季語〈春の虹〉が最高だ。だって、そのあまりの美しさに、ディンギーが白い馬へと変身してしまったみたいなんだもの。
(小津夜景)
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【執筆者プロフィール】
小津夜景(おづ・やけい)
1973年生まれ。俳人。著書に句集『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂、2016年)、翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版、2018年)、近刊に『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』(素粒社、2020年)。ブログ「小津夜景日記」
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】