津や浦や原子爐古び春古ぶ 高橋睦郎【季語=春(春)】

津や浦や原子爐古び春古ぶ

高橋睦郎


[1/5]
前回は林田紀音夫の句を起点に、「社会性は読者の態度」だという主張を述べた。今回は、社会性とは切っても切れない「時代性」について考えようと思う。
俳句と時代性というと、角川「俳句」2024年11月号の板倉ケンタの時評「俳句甲子園に見る、最先端の『同時代性』」が記憶に新しい。ここでの「同時代性」は、世界文学の文脈で言われる、同じ時代に書かれたことで作品に共通の志向が認められるということではなく、「その時代が何らかの形で反映されている」くらいの意味だろう。板倉は、現代的なものの見方や世界の把握の仕方、言語感覚を正確に描き出した句を「同時代性」のある句として、そこに俳句の「更新」の前線を見出す。時代の最先端における「同時代性」は、「現代性」である。また、「現代性」のある句について、「『その時代を鮮やかに切り取った句』として後世から見ても詩がある」(「俳句」2024・11)、つまり評価が同時代に限定されない超時代性があってこそ真の秀句だと述べる。
さらに、板倉は俳句を「更新」していく表現を追求しなければならないという問題意識に基づき、「過去・現在において、存在しなかった句を書き、誰もなし得なかった仕事をする、それこそが俳人の価値」(「俳句」2024・11)と言い切る。この時評には、これまでに書かれなかった新しい俳句によって俳句(表現)史が進められる、という進歩史観が認められる。

これに対して、柳元佑太は短詩系ブログ「帚」に掲載した「〈ゆるやかなわたしたち〉について おぼえがき」(2025年2月10日)の中でこの進歩史観に疑問を呈している。この批評は2024年12月28日(土)に開催された第128回現代俳句協会青年部勉強会「名付けから始めよう 平成・令和俳句史」での柳元の発表レジュメによる(なお、筆者はこの勉強会のアーカイブを未だ視聴していないので、当日なされた重要な発言を取り落としている可能性は否めないことを注記しておく)。柳元は、進歩史観の前提となる「直線的時間」が前衛的文学共同体の中で共有されてきた時間感覚であるとした上で、「新しい」俳句を目指しながら「新しくない」俳句を一切否定する価値体系の危うさを指摘する。

もし俳句が「進歩史観」から取りこぼされた者の切実さを託しえない詩形なのだとしたら、つまり「進歩史観」を信じ得る人間によってのみ俳句のメイン・ストリーム(そんなものがいまだあるとして)が形成され、それ以外の人間は周縁で自己慰撫に耽っていればいいというのが俳壇一般の認識になるべきなのだとしたら、それは果たして思い描くべき未来の姿なのだろうか。〔中略〕様々な事情で「進歩史観」から脱落せざるを得ない製作者がいる。〔中略〕ジャーナリズムがいかに恣意的であるかは言を俟たないし、周縁はいとも容易く消去されるだろう。(柳元佑太「〈ゆるやかなわたしたち〉について おぼえがき」)

柳元によると、この進歩史観は現在の新たな俳句共同体〈ゆるやかなわたしたち〉においては(少なくとも前衛的文学共同体のようには)共有されていないようである。〈ゆるやかなわたしたち〉とは、「伝統的結社」や「前衛的文学共同体」とは異なり明確なヒエラルキー・イデオロギーを持たない新しい形の俳句共同体である。そこでは、俳句の上達や革新は手段に過ぎず、個々の生の表現と共有が重視される。また、俳句史の進展よりも「今・ここ」を重視する時間感覚を持った作句/選句の特徴を有し、俳句に一回性の「今・ここ」における生を見出そうとする。
進歩史観では書くときにその都度その時点において新しい表現・これまでにない俳句を追求することが要請されるが、その背景には俳句表現史という大きな枠組みの「直線的時間」への意識がある。一方、〈ゆるやかなわたしたち〉で重要視される「今・ここ」は、〈ゆるやかなわたしたち〉に属する多様な〈わたし〉の在り方を肯定する。「今・ここ」で「書く」という行為が重視されるならば、書かれた俳句は普遍的なテクストとしてではなく、「個々の肉体や精神から立ち上がる一回性のある発話」(柳元)として読まれることになる。創作・読解の時点で表現史は意識されていない。
なお、「前衛的文学共同体」が実際にどれほど進歩史観を共有しているのか、「伝統的俳句結社」における「(芸事としての)俳句の上達」(柳元)を追求する価値観の変遷、そもそも共同体に属さない人たちの動向についてなど、具体的事案については一考の余地があるだろう(板倉の「進歩史観」は共同体が形成したものなのだろうか)。しかし、本稿では、柳元が大胆にも分類した「進歩史観」や〈ゆるやかなわたしたち〉の時間感覚に注目し、共同体との関わりの中で、どのように現代と結びついているのかを検討していきたい。

[2/5]
〈ゆるやかなわたしたち〉における「今・ここ」は、一見すると「同時代性」や「現代性」に言い換えられるようにも思われるが、どうだろうか。まず、「今・ここ」と板倉の言う「現代性」が異なることは、柳元が指摘した両者の時間感覚の違いからして明らかだ。板倉の「現代性」が、直線的に続いてきて且つ続いてゆくはずの、時間軸の最先端にある現在を描き出すことであった。これに対して、「今・ここ」には書き手の現在の感性しかない。では、「今・ここ」の時間感覚で現代という時代を描き出す場合、その「現代性」はどのように表れるだろうか。なお、時評は作句の実践的手法ではなく、あくまでも板倉が句から読み取る「現代性」の議論であることに注意されたい。ここで既に、「同時代性」が作品として発揮されるのは読まれる時点であることが示唆される。

板倉の時評に引用された句を改めて見ていこう。作者名の横の括弧は第27回俳句甲子園全国大会でのチーム名である。

ハンカチや誰も逃げられない映画 後閑啓太(高崎)
翡翠やドラムロールの空気感 山田俊汰(旭川実業・旭川西)
板倉は、〈ハンカチや〉句の「逃げられない」という現在形が逃げられなさに恒常性を付与し、パッケージされた映画が放映されるたびにその逃げられなさが発現するとして、映画がパッケージされる、あるいは何度も再生されるというところに「サブスク的」な「現代性」を見出す。〈翡翠や〉句は、「ドラムロール」というチープなSEと「空気感」という脱力した表現によって現実がコミカルにデフォルメされているとした上で、空間の雰囲気を雰囲気のまま把握する現代の若者の感覚が、「空気感」という語彙にあらわれていると述べる。板倉の進歩史観のもとで評価される「現代性」はそれぞれ、「サブスク的」に映画をとらえる現代的で新鮮な把握、表現として斬新なデフォルメと「空気感」の語彙選択に見られる現代の若者のものの見方である。
一方、「今・ここ」、つまり句の一回性を重視した場合はどう読めるだろうか。〈ハンカチや〉句で「誰も逃げられない」のは映画の中の人物であると同時に、「ハンカチ」から何となく想像される狭めの映画館に入れられ上映の途中で席を立てない観客の窮屈な心理がつながるような感覚がする。また、〈翡翠や〉句は「ドラムロール」がクレッシェンドしていく音の中にいてその「空気感」を味わっている身体が意識される。これらの読みに共通しているのは、その一回の読みを通して、句の主体が得る感覚と読者の感覚とが交叉するところだ。柳元が提供する「『作者の死』の死」(「〈ゆるやかなわたしたち〉について おぼえがき〉」)という読みの枠組みに基づくと、その句の主体に作者の姿がのぞくが、いずれにせよ読者は、句が生成する一回性の感覚を主体/作者と共に感じることになる。
 板倉の言う「現代性」は、俳句表現史という「直線的時間」の文脈の中で位置づけられる最先端の「同時代」として、現代の感性を正確に描き出すことであった。柳元の言う「今・ここ」は〈ゆるやかなわたしたち〉に見られる時間感覚であり、そこには句が詠み読まれる時点の現在しか存在しないだろう。現代をいかに描いているかというよりも一回の読みで経験できる(身体)感覚が重視されるという点で、「現在性」と呼ぼう。

アイスキャンディー栄養ないし好き 知念ひなた(興南A)
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
焼きそばのソースが濃くて花火なう 越智友亮
板倉は〈アイスキャンディー〉句について、アイスキャンディーに栄養も美味しさも求めておらず、第一に自分の身体に何も残らない快があると言う。それを「好き」と飾らずに言う人物像にうっすら病的な感覚がすると述べ、「同時代(≒令和の十代の)人物像を解像度高く、さらに韻律含め洗練された表現で提示」したことを高く評価している。一方、〈コンビニの〉〈焼きそばの〉句については、現代(平成)の「コンビニ」感覚の表現と季語「おでん」を「更新」する新しい抒情、「なう」というSNS時代初期の流行語の使用などに現代性を見出す。しかし、〈コンビニの〉句の「星きれい」という表現には「コンビニというありふれた場所で星がきれいだありふれたことを感じる自分」を演出する意図が見えすぎると指摘している。また、〈焼きそばの〉句には「等身大の表現」が際立つ反面、上五中七の叙述が「練られて」いないと述べているように表現としての瑕疵を問題視し、〈アイスキャンディー〉句を「ネイティブな現代性」、〈コンビニに〉〈焼きそばの〉句は「演出された現代性」だと言う。
 これに対して、「今・ここ」の「現在性」では、その「演出」と言われる表現にさえ「そう書かなければならなかった作者の生」を見出すだろう。進歩史観の「現代性」が提示された表現を重要視するのに対して、「今・ここ」の「現在性」は、「書く」という行為自体を肯定した上で、それを含めて眼前にある「書かれたもの」を読み解こうとする。

[3/5]
「現在性」の読みは、句を読むたびに「そう書かなければならなかった作者の生」を見出し、自身の経験とも交叉しながら句の内容を感覚していく。この読み方は、進歩史観では表現の一部が既存であるといった瑕疵だけで切り捨てられてしまった俳句を掬い上げることができるだろう。しかし、一方でどんな句でも誰かが「そう書かなければならなかった作者の生」を見出すことで「面白がれる」ならば、「良い」俳句は各読者の中にしかない。俳句において読者は実作者であることが多く、読みが形成する「良い俳句」の個別化は、「良い俳句」像にもとづいて俳句を書くことの個別化にもつながる。新しい共同体には、人々の作者/読者としての個別化が共同体内の多様性としてあらわれる構造があるのではないだろうか。
柳元が挙げた〈ゆるやかなわたしたち〉の特徴を①共同体と構成員の関係、②共同体の存在意義、③共同体で書くこと、④共同体で読むこと、に分けて以下のようにまとめる。
① 共同体は構成員を規定せず、構成員それぞれの多様な在り方を肯定する。
② 共同体は構成員それぞれの生の充実を第一義とする。
③ 「今・ここ」で書くことで自己/他者がどのようにあらわれるかを重要視する。
④ 俳句をそのつど一回性のある発話として読み、それを所与のものとして言語化して評する。
③、④については[2/5]で述べてきた通りである。「読む」という行為を通して共同体内の互いの「生」を肯定しあうことで、②も達成されるだろう。
①について、あらゆる点で〈ゆるやかなわたしたち〉の主体は構成員それぞれである。従来の結社や句会では、主宰や代表が一定の俳句観を示し、そのもとで俳句の価値基準が共有されていた。しかし、〈ゆるやかなわたしたち〉というあり方に至って、共同体には特定のイデオロギーや統一的な俳句観が存在しなくなった。構成員が多様な俳句観を持つ個人へと変わったことで、選者と構成員との関係は従来の「師匠と弟子」という階層的なものではなく、対等な個人間の関係へと変化した。選者に選句されることも、自身の俳句に絶対的な価値観が示されるのではなく、自分を相対化するという意味になる。一見するとこれは民主化であり、俳句の自由な発展を促すようにも思える。しかし、評価基準が相対化され、俳句観の多様性が形式的にしか機能しない状況においては、選句は単なる個人の好みの表明にとどまり、その批評性は弱まってしまう。共同体内で共有される統一的な俳句観や「良い俳句」の基準の無い時代、それはまさしくリオタールが『ポスト・モダンの条件』(原題La condition postmoderne)(1979年)で述べたような、「大きな物語」が終わったLa condition postmoderne(ポストモダンの状態)が生じているということだろう。
共同体の「大きな物語」としての俳句観だけでなく、個々人の俳句観さえもポストモダン的な消費社会の中で揺らいでいるのではないだろうか。SNS上での俳句の投稿や共有が容易になり多様な作風が可視化されたが一方で、「良い俳句」の評価は、伝統的な批評ではなく「いいね」の数や拡散の度合いによって決まる傾向が強まった。俳句はもはや結社内の厳密な批評を経るのではなく、リアルタイムで消費され、即座に評価されるものとなったのである。この状況下では、俳句の多様性は単なる「流行の移り変わり」としてしか機能せず、作句の営みそのものが消費社会の論理に回収されてしまう。神野紗希が「俳壇年鑑2024年版」の鼎談で述べているように俳句の主体が「置き換え可能な誰か」(「俳壇」2024年5月号増刊版)の俳句へと変質しているならば、個人が書いた俳句でありながら、それは特定の誰かの経験としての重みを持たず、大衆の消費に適した一般的経験の断片となっていく。俳句が単なる「消費されるコンテンツ」となるならば、〈わたし〉の俳句はもはや〈わたし〉のアイデンティティを表すものにはなりえない。それは、消費社会が「個性的であること」を謳いながら、物の価値を質ではなく量に求めることで、実際には均質化を推し進めている構造と同じであろう。
なお、共同体が「フラット」であることを「売り」にしながら、特定の個人による選句というシステムが温存されることには注意が必要だ。ロラン・バルトの「作者の死」は、テクストの最終的な統括者としての作者の権威を否定し、作品を読者の共有物とした。これまで示してきた「現代性」による表現を重視する読みはこれに基づくとともに、テクストから作者の生を架空する「現在性」の読みもまた、読解の出発点がテクストにあるという点でその影響下にある。そもそも、テクストがそのように書かれ別のようには書かれなかったことを分析するのは、ジャック・デリダの「脱構築」を援用したアメリカ文芸批評(ド・マンなどのイェール学派)のポストモダン的手法である。「作者の死」の重要性は作者の「権威」の否定であり、作品の価値の根拠を、「誰が書いたか」ではなく「何が書かれてあるか」を読み取る読者の手へと引き渡した。しかし、俳句では多くの場合、読者は実作者でもある。権威の否定というポストモダンの根幹が達成されないままに「多様な」読みが可能になった結果、特定の個人の「読み」に権威が生じる可能性は否定できず、その権威に追従する形で消費社会の流行が発生しうることは指摘せざるを得ない。

[4/5]
さて、私は「楽園」(堀田季何主宰、2020年~)の会員である。「楽園」は結社として「俳諧自由」を掲げており、柳元が〈ゆるやかなわたしたち〉の一つに挙げている。つまり、本稿で試みてきた批評はすべて私自身に突き刺さることになる。ここ一年、私が様々な執筆の場を持つことができたのは間違いなく第12回俳句四季新人賞のおかげであろうし、賞というシステムが本質的に権威を要することは自覚している。では、私は、今後どのように俳句や俳句共同体と関わっていくべきなのだろうか。
まず、「楽園」内部の人間の体感として言えるのは、現在の「楽園」は、外部の人々が想像するよりも「ちゃんと」結社である、ということだ。「楽園」に「結社らしくない」というイメージがあるならば、楽園俳句界のホームページのFAQのためだろう。

4.
【Q】楽園俳句会は、特定の俳句観や作風を標榜していますか?
【A】結社ですが、一切しておりません。主宰と同じ考えを持つ必要はありませんし、違う考えを表明されても全く構いません。結社として唯一標榜しているのは俳諧自由です。あらゆる垣根を越えた自由とその自由に対する尊重です。
7.
【Q】普通、結社の会員になると、結社の主宰を師とするのが決まりですが、楽園俳句会はどうなのですか?
【A】主宰を師だと思う必要はありません(思うのも自由です)。主宰の指導も絶対ではありません。会員や句会参加者の学びにおける一助ないし参考になれば幸甚です。
(楽園俳句会ホームページより)

毎月開催の「猫の髭句会」と「オンライン句会」が主な句会で、主宰と会員の互選なのだが、管見の限り、句会に参加する比較的多くの会員が主宰を「先生」として選を受けているようである。また、句会全体の時間の制約があるにせよ、一般の会員に比べて主宰が選評を述べる時間が圧倒的に長く、これが主宰の権威化につながるのは否めないだろう。たとえ主宰自身に権威となる意志がなかったとしても、句会のシステム的に主宰が権威化しやすかったり会員側から積極的に従属したりしては意味がないにとどまらず、あたかも「フラット」な共同体であるかのような体面を保つのは有害とさえ言えよう。
しかし、選句という行為は、その性質上、選者に多少の権威が生じることは避けられない。それについては、FAQに「(共同体運営の)中心である以上、主宰の権威化が起きてしまう可能性は排除できませんが、極力防ぎます」(楽園俳句会ホームページ)とあるように主宰も自覚的だ。では、その上で会員はどのようにこの共同体に参加すべきか。「フラット」な共同体の構成員に課されるのは、当然のことではあるのだが、主宰の選を、その内実まで咀嚼するという意識だ。また、主宰を先生だと思わない(ように努める)一部の会員は、主宰という立場にどうしようもなく発生する権威やその権威に伴う責任を透明化しないように努めるべきだろう。そういう意味では、この文章自体が、透明化されやすい権威の告発として機能するかもしれない。
現状、私が考えているのはこんなところだ。結局は各会員の意識なのかもしれないが、「フラット」な共同体ならば、結社内のシステムに対してアクチュアルに働きかけることも時には必要だと思う。目下の具体的な目標(要望)としては、投句方法を何かしら工夫することで「猫の髭句会」の各会員の発言時間をもう少し確保できれば……と思っている。俳句の選評に対する他の会員のコメントができるとより望ましい。主宰の発言の権威化を防ぐ意図だけでなく、なにより、「読む」という行為の重要性がもっと注目されるべきだと考えているためである。

[5/5]
最後に、ポストモダンな俳句の現状を意識した上で、「同時代的に書く」とはどのような営みかを考えていく。ここで、フーコー、デリダなどフランス現代思想以降に芸術、言語、哲学、政治など多分野で論を展開したジョルジョ・アガンベンの「同時代人とは何か?」を参照しよう。アガンベンは、我々と同時代に属するのは誰であり何であるか、そもそも同時代に属するとは何を意味しているのかという問いを立て、ニーチェが『反時代的考察』で同時代性に反時代的要素(=アナクロニズム)を見出したことを糸口にして答えている。

自身の時間に真に属し、自身の時間と真に同時代的である人物は、自身の時間と完全に一致することも、自身の時間と要求に順応することもできません。したがって、この意味では、このような人物は非現実的であるといえます。しかし、まさにこのゆえにこそ、この割け目とアナクロニズムをとおしてこそ、この人物はほかの人びと以上に、自身の時間を知覚し、把握できるようになるのです。(ジョルジョ・アガンベン(岡田温司、栗原俊秀訳)『裸性』平凡社、2012年)

同時代的な人物は、時間に目を向けるとき、「光」ではなく「暗闇」に視線を定める。意識しなければ(意識していてさえも)経験できない「暗闇」の事物に問いを投げかけ続け、その事物が自分へ働きかけようとしていることを知覚する。また、時間を破線のように分割し、破線を構成する一つの短線である現在の端に、過去や未来を接続・引用することで、時間同士新たな関係性を作用させ「いまだ知られざる方法」で歴史を読む。現在においてもアルケー(根源)に接近したアルカイック(古風で素朴なもの)なものを見出し、歴史の生成を現在と「同時代的に」作動させる。それには、現在だけでなく過去のテクストや資料のなかの時間とも「同時代」である能力が必要だろう。過去から未来まで、従来読み落とされてきた様々なものに目を向け、それを今の時間と「同時代」としてアナクロニズム(時代錯誤)的に捉えることで、時間同士の新たな関係性として現在に歴史が読み出される。
アガンベンの「破線的時間」はつまり、今の時間の終りに次の時間が訪れるという神学的な思想である。一般に「次の時間」はユートピア的な未来もしくは理想的だった過去とされるが、アガンベンの場合の「次の時間」は、その始まりも終わりも同定できない「今起こりつつある新しい時間」である。未来へのまなざしは現在が終わるという終末論ではないし、過去へのまなざしはノスタルジックな復古ではない。つまり、モダニズム以前の歴史からポストモダン、現代そしてこれからの時間を時間的・時代的・文化的・空間的に分割し、それぞれを現在のもとで連関させていくこと、それが「同時代的」に書くということになる。ここに、進歩史観的な前進姿勢を諦めることなく、「今・ここ」の「現在性」の生が俳句に結実するのではないだろうか。
アナクロニズム的な「同時代性」を有した作家で、真っ先に思いつくのが高橋睦郎だ。『花や鳥』(ふらんす堂、2024年)を引いて本稿を終えようと思う。

『花や鳥』より
Mitochondrial Eveがわが家祖草霞む
戀なべて泥うたかたと業平忌
弖爾乎波(てにをは)の弖と波大切初懷紙
海ナ底の黃泉は語らず鮑海女
枯野ゆくしぐれを船と思はずや
秋立つやわが身わが杖その影も
山や水有情無情や皆目覺む

本稿の表題〈津や浦や原子爐古び春古ぶ〉も『花や鳥』所収。高橋の句は古典を思わせる文体とユーモアを持ちながら、ノスタルジー的な偽古典に陥ることなく現代を描写する。季語や切れ字の使い方など、古典を意識した叙述法と現代的内容・感性とのアナクロニズムが生じさせる軋みは、古今を重ね合わせた夢幻的な世界をざわめかせ、その映像を「現在」に鮮明に映し出すのである。

[0]
ここまでお読みいただきありがとうございました。
原稿締切を三日も過ぎてしまいました。堀切克洋さん、いつも読んでくださっている皆様、大変申し訳ありません。三日の遅刻も許せるような論考になっていると幸いなのですが……感想・指摘・批判・反論もお待ちしております。ツイッターでの場合はメンションしていただけると嬉しいです。

関灯之介


【執筆者プロフィール】
関灯之介(せき・とものすけ)
2005年生れ。2020年秋より作句。楽園俳句会、東大俳句会所属。第1回鱗kokera賞村上鞆彦賞、第12回俳句四季新人賞、第3回楽園賞準賞。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



【2025年2月のハイクノミカタ】
〔2月1日〕山眠る海の記憶の石を抱き 吉田祥子
〔2月2日〕歯にひばり寺町あたりぐるぐるする 平田修
〔2月3日〕約束はいつも待つ側春隣 浅川芳直
〔2月4日〕冬日くれぬ思ひ起こせや岩に牡蛎 萩原朔太郎
〔2月5日〕シリウスを心臓として生まれけり 瀬戸優理子
〔2月6日〕少し動く/春の甍の/動きかな 大岡頌司
〔2月7日〕無人踏切無人が渡り春浅し 和田悟朗
〔2月8日〕立春の佛の耳に見とれたる 伊藤通明
〔2月9日〕はつ夏の風なりいっしょに橋を渡るなり 平田修
〔2月11日〕追羽子の空の晴れたり曇つたり 長谷川櫂
〔2月12日〕体内にきみが血流る正坐に耐ふ 鈴木しづ子
〔2月13日〕出雲からくる子午線が春の猫 大岡頌司
〔2月14日〕白驟雨桃消えしより核は冴ゆ 赤尾兜子
〔2月15日〕厄介や紅梅の咲き満ちたるは 永田耕衣
〔2月16日〕百合の香へすうと刺さってしまいけり 平田修
〔2月18日〕古本の化けて今川焼愛し 清水崑
〔2月19日〕知恵の輪を解けば二月のすぐ尽きる 村上海斗
〔2月20日〕銀行へまれに来て声出さず済む 林田紀音夫

【2025年1月の火曜日☆野城知里のバックナンバー】
>>〔1〕マルシェに売る鹿の腿肉罠猟師 田中槐
>>〔2〕凩のいづこガラスの割るる音 梶井基次郎
>>〔3〕小鼓の血にそまり行く寒稽古 武原はん女
>>〔4〕水涸れて腫れるやうなる鳥の足 金光舞

【2025年1月の水曜日☆加藤柊介のバックナンバー】
>>〔5〕降る雪や昭和は虚子となりにけり 高屋窓秋
>>〔6〕朝の氷が夕べの氷老太陽 西東三鬼
>>〔7〕雪で富士か不二にて雪か不尽の雪 上島鬼貫
>>〔8〕冬日宙少女鼓隊に母となる日 石田波郷
>>〔9〕をちこちに夜紙漉とて灯るのみ 阿波野青畝

【2025年1月の木曜日☆木内縉太のバックナンバー】
>>〔5〕達筆の年賀の友の場所知らず 渥美清
>>〔6〕をりをりはこがらしふかき庵かな 日夏耿之介
>>〔7〕たてきりし硝子障子や鮟鱇鍋 小津安二郎
>>〔8〕ふた葉三葉去歳を名残の柳かな 北村透谷
>>〔9〕千駄木に降り積む雪や炭はぜる 車谷長吉

関連記事