万の春瞬きもせず土偶
マブソン青眼
マブソン青眼は1968年フランス生まれの俳人で、比較文学者。1996年から長野県に在住。2000年より金子兜太主宰「海程」同人、2018年より後継誌「海原」同人。2021年からアニミズム三部作として句集『遥かなるマルキーズ諸島』(参月庵、2021年)、『妖精女王マブの洞窟』(本阿弥書店、2023年)、『縄文大河』(本阿弥書店、2024年)を刊行。『妖精女王マブの洞窟』は第七十九回現代俳句協会賞を受賞している。『妖精女王マブの洞窟』の最後50句で試みられた五七三の韻律が、『縄文大河』で一つの達成を得た。
『妖精女王マブの洞窟』より
白雲(はくうん)より大鷺降りて無音
河凍って雑音のない地球
悉く山の名を忘れ服喪
億万の蕾抱えて大地(モシㇼ)
『縄文大河』より
天渡る巨石行進 晩夏
滝壺の疲れた水を啜る
寒夕焼千曲川(ちうま)の銀を金に
一万年ヒト居し岩や松鞠(ちちり)
五七三の韻律が本来あるべき二音の欠如と見なされるとき、「下五」が三音であることの表現上の必然性が批評の眼に晒されるだろう。特に、マブソンの句には、句末に切れ字「かな」を補うことで五七五の定型句にできるものも認められる。下三をあるべき音の欠如として読むのは、五七五という定型韻律が前提にあるためである。もちろん、音の欠損や定型からの剝離が逆説的に俳句定型の力強さを表象することもあるだろう。しかし、その句が五七三の韻律であることは下三まで読みきって初めて分かることである。五七五という所与の型の一部が欠けているというよりも、ここでは、上から下に読んだとき最後に生成される空白に何を感じ取ることができるか、という読み方をしてみたい。
万の春瞬きもせず土偶
掲句は『縄文大河』所収。縄文時代から今に至るまで、一万回繰り返された春を土偶はずっと見つめてきた。その間、ムラが出来、クニが出来、人々は幾度も争いを重ね、ときに泰平の世を過ごしたが、いつも一年が経つと必ず春がやってきた。そして、これからもまた春はやってくる、その永遠を瞬きもせずにずっと見つめる土偶は、この世界を圧倒的に肯定しているようだ。
五七三の韻律は、一句を読み終わった後に圧倒的な余韻を残す。この余韻は上五と下三の非対称性のために生じるものだ。下三は、上五に対して短い音数で俳句を終わりへ運ぶ。俳句全体の緩急で言うと「急」である。下三という急流が生じさせる読後の余韻は、緩流の下五よりも強く感じられる。掲句については、下三「土偶」まで読んだとき土偶の圧倒的な存在感が読者の意識に残り、その後には大きな空白感が生じるだろう。この空白感に今そしてこれからの春を思うとともに、過去の春の時間さえもその空白に反響する。下三の空白の余韻には過去・現在・未来が淀み、悠久の時間が流れている感じを覚える。それと同時に、三音で句が終末してから後ろには一切の時間が存在しないようにも感じられる。
さて、マブソンはこの五七三の韻律を「無垢句」と呼び、「新韻律」として新たな定型を試みているようだ。この「無垢句」を書き始めるきっかけについて、マブソンは「千曲川の縄文遺跡の近くの中洲で昼寝をしていたら、突然授かったリズム」(「現代俳句」2024年9月)と述べている。「無垢句」という名称には、マブソンの言葉を読む限り、二つの「無垢」があるようだ。一つは、韻律そのものの「無垢」である。「無垢なる宇宙を垣間見たようなリズム…。『無垢句』という言葉は自然に口から出た」(「青淵」2025・1)と言っているように、韻律そのものを直感的に得たという体験にもとづく「無垢」だ。この体験はマブソン本人の語りによって「突然授かった」(「現代俳句」2024・9)かのようなスピリチュアルな要素が強調されるが、五七三が生じる素地はもともとマブソンにあったのではないだろうか。マブソンは尾崎放哉の〈女の白い手が眼の前で消えた〉〈一本の洗濯竿の月夜〉〈月光の井戸を覗いただけだ〉などに「無垢句」的な要素見出している。自由律俳句という感情の律動を自由に表現する詩において、一定の「型」のような韻律の傾向がみられることから、人間の感情・身体に馴染む韻律が示唆される。これまで自由律俳句も作ってきたマブソンなら、その韻律を体得していても不思議ではない。もう一つは、視線の「無垢」だ。『妖精女王マブの洞窟』のあとがきに、「苗字の通り『マブの子』に生まれ変わったかのような童心に帰り、再びこの地球を無垢な『青眼』で眺めたいと思った」とある。マブソンの苗字MABESOONEは夢幻を司る妖精女王マブの息子という意味で、女王マブの夢から醒めた人間は、世界を清らかな眼で眺めこの世を再発見することできる、という伝承がある。このように、まっさらな「無垢」な眼によって得たものを、まっさらな身に得た韻律(五七三)で表現する、という意味での「無垢句」だろう。
マブソンは「無垢句」を、『遥かなるマルキーズ諸島』から始まった「アニミズム俳句」俳句の到達点として捉えている。ここで興味深いのは、「無垢句」の韻律について「これぞ、螺旋のような、アニミズムのリズムだ」(「現代俳句」2024・9)と言っているように、「無垢句」のアニミズム性を、視線の「無垢」ではなく韻律の「無垢」に見出しているのだ。俳句のアニミズム性というと、非人間である「もの」にも霊性を見出すことがよく挙げられ、季語へのこだわりもその一つとされる。また、マブソンの師にあたる金子兜太、ものの内面にある「生きものの感覚」を見出し全てのものを生きものの世界としてを捉えることが「アニミズム」であると主張していた。これらが俳句の内容的性質にアニミズムを見出すのに対して、マブソンは五七三という韻律そのものがアニミズムであるというのだ。五七五は周期的・輪廻的、五七三は螺旋的な時間意識であるとして、後者がアニミズムの時間意識であるとするが、どういうことなのだろうか
マブソンの「アニミズム」がフィリップ・デスコラの世界観の四類型によっていることは「『アニミズム俳句』、無垢句、そして『縄文大河』への道のり」(現代俳句協会ホームページ)で明かされている。デスコラは精神性と肉体性という二軸の類似・差異によって世界観をアニミズム、トーテミズム、アナロジズム、ナチュラリズムの四つに分類する。例えば、アニミズムの世界観では生物種を超えて(人間を含む)その精神は同一であり肉体に差異があるとされ、その肉体の差異のため世界の存在の仕方(パースペクティヴ)が異なるという。一方、ナチュラリズムでは人間と非人間が完全に区別され精神性を持つ唯一の人間が「科学」によって一つ世界を客観的に観察する。これは、西洋近代の「文化」「自然」の二分であり、この二分こそデスコラが超克しようとしたものである。アニミズムの世界では「様々な衣装=身体=視野を持った『人々』が、それぞれの位置から自然を眺めて」(箭内匡『イメージの人類学』せりか書房、2018年)いるため、人間はその「人々」と対等な関係を結ぼうとするのだ。
アニミズムの典型とされ、マブソンも『妖精女王マブの洞窟』で取材した、アイヌを例に見てみよう。アイヌにとって、熊や狐といった動物から火や水、日常で使う食器まで、さまざまな日常のモノはカムイが人間の世界で姿を変えたものである。狩猟によって動物の命をいただく、道具を使い終えるなどしたあとは、そのカムイを元のカムイの世界へ「送り」還す儀式を行う。しかし、カムイの世界は人間の世界から隔絶したところにあるのではなく、人間の世界と同じところにあって常に連絡している。宗教人類学者の中沢新一は「メビウスの帯」を用いてこれを説明し、人間の世界とカムイの世界は表裏なく繋がっているとした。そして、その往還は無限に繰り返される。「クマ送り」でそれは顕著だ。クマはその毛皮と肉をみやげとしてカムイの世界から人間の世界に現れる。人間はその肉と毛皮で生活し、クマのカムイにみやげを持たせてカムイの世界に還す。そしてカムイは再びクマとなって人間の世界に現れる。人間もまた死後はカムイとなり、この無限の往還に入っていく。これは隔たれた二世界を行き来するのではなく、「メビウスの帯」をなぞるように人間とカムイが入れ代わり立ち代わり姿を変えるのだ(奥野克巳、清水高志『今日のアニミズム』以文社、2021年)。
アイヌの人間とカムイの無限の往還を踏まえると、周期的な五七五を仏教的時間感覚として退け「螺旋的」な五七三を導入するのは奇妙に思えてくる。浄土系の仏教思想は、衆生が浄土に往生し、還ってきてまた衆生を救うというものであり、カムイの往還と重なるところがあろう。吉本隆明は親鸞の説く還相廻向について、「生きているところから死へと歩んでいく相を往相、生きつづけながら死からの眺望を得る相を還相」(奥野)だと解釈し、浄土から穢土へ還ってくるのではなく往相を進んでいったところから来し方を眺めるのだという。二単に世界を往来するのではなく、あちら側へ往く途中に来し方を振り返ることがあってこそ、往還が成立する契機となる。アイヌのクマ送りも、カムイを送り還すときにみやげを持たせることで、カムイが人間の世界を振り向き再び還ってくることを祈るのだ(奥野)。
ここで、アイヌに取材したマブソンの句を見てみよう。
『妖精女王マブの洞窟』より
アイヌモシㇼの臍の緒きらり凍河
アイヌ語美(は)し雪解雫もラ行
熊の足跡(あと)消えてその先あの世
みずうみのなみはみずうみのカムイ
来し道やアイヌ文様の揚羽
「臍の緒」「雪解雫」「その先あの世」「なみ」「来し道」など語彙に見られるように《これから先》や《これまで》への眼差しを持ちながら、下三には、〈万の春瞬きもせず土偶〉についても述べたが、悠久にして無時の空間が存在する。
時間感覚とアニミズムについて、人類学者の岩田慶治に言及して本稿を結ぼう。岩田は、アイヌや浄土系の還相論に見られる往還ができるのはシャーマンのような存在に限られるという。そうでなく、シャーマンだけでなく、たとえば木に果実のなる不思議をふと思うなど、あらゆる人間が生活のなかでふとしたきっかけで「あちら側」と出会うことになる。モノに宿る精霊に気づく、と言ってもいいだろう。日常という有限の世界のなかに無限の時空を見ること、それは、表裏のない「メビウスの帯」上では無限のなかに有限の時空を見ることであり、それこそがアニミズムだと言える(奥野)。その「あちら側」と同時的な経験は、時間性の無い無時の瞬間である。この無時の空間が、「無垢句」における下三の後の空間なのではないだろうか。
なお、「螺旋的」についてはいまだ謎が残る。私は『カナルタ 螺旋状の夢』(太田光海監督、2020年)というドキュメンタリー映画を思い浮かべた。アマゾンの先住民シュアール族のエスノグラフィーの記録である本映画には、円環的世界観の中で生活するシュアールの人々が夢や「ヴィジョン」(ある種のお告げ)を得てそれぞれが異なる生き方を進んでいくという、円に閉じない「螺旋」を見た。五七三を「螺旋」たらしめるもの、進ませるものが何なのか、私には今のところ見えていない。
(関灯之介)
【執筆者プロフィール】
関灯之介(せき・とものすけ)
2005年生れ。2020年秋より作句。楽園俳句会、東大俳句会所属。第1回鱗kokera賞村上鞆彦賞、第12回俳句四季新人賞、第3回楽園賞準賞。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【2025年2月のハイクノミカタ】
〔2月1日〕山眠る海の記憶の石を抱き 吉田祥子
〔2月2日〕歯にひばり寺町あたりぐるぐるする 平田修
〔2月3日〕約束はいつも待つ側春隣 浅川芳直
〔2月4日〕冬日くれぬ思ひ起こせや岩に牡蛎 萩原朔太郎
〔2月5日〕シリウスを心臓として生まれけり 瀬戸優理子
〔2月6日〕少し動く/春の甍の/動きかな 大岡頌司
〔2月7日〕無人踏切無人が渡り春浅し 和田悟朗
〔2月8日〕立春の佛の耳に見とれたる 伊藤通明
〔2月9日〕はつ夏の風なりいっしょに橋を渡るなり 平田修
〔2月11日〕追羽子の空の晴れたり曇つたり 長谷川櫂
〔2月12日〕体内にきみが血流る正坐に耐ふ 鈴木しづ子
〔2月13日〕出雲からくる子午線が春の猫 大岡頌司
〔2月14日〕白驟雨桃消えしより核は冴ゆ 赤尾兜子
〔2月15日〕厄介や紅梅の咲き満ちたるは 永田耕衣
〔2月16日〕百合の香へすうと刺さってしまいけり 平田修
〔2月18日〕古本の化けて今川焼愛し 清水崑
〔2月19日〕知恵の輪を解けば二月のすぐ尽きる 村上海斗
〔2月20日〕銀行へまれに来て声出さず済む 林田紀音夫
【2025年1月の火曜日☆野城知里のバックナンバー】
>>〔1〕マルシェに売る鹿の腿肉罠猟師 田中槐
>>〔2〕凩のいづこガラスの割るる音 梶井基次郎
>>〔3〕小鼓の血にそまり行く寒稽古 武原はん女
>>〔4〕水涸れて腫れるやうなる鳥の足 金光舞
【2025年1月の水曜日☆加藤柊介のバックナンバー】
>>〔5〕降る雪や昭和は虚子となりにけり 高屋窓秋
>>〔6〕朝の氷が夕べの氷老太陽 西東三鬼
>>〔7〕雪で富士か不二にて雪か不尽の雪 上島鬼貫
>>〔8〕冬日宙少女鼓隊に母となる日 石田波郷
>>〔9〕をちこちに夜紙漉とて灯るのみ 阿波野青畝
【2025年1月の木曜日☆木内縉太のバックナンバー】
>>〔5〕達筆の年賀の友の場所知らず 渥美清
>>〔6〕をりをりはこがらしふかき庵かな 日夏耿之介
>>〔7〕たてきりし硝子障子や鮟鱇鍋 小津安二郎
>>〔8〕ふた葉三葉去歳を名残の柳かな 北村透谷
>>〔9〕千駄木に降り積む雪や炭はぜる 車谷長吉