名を忘れ香水の名を忘れざる 西生ゆかり【季語=香水(夏)】


名を忘れ香水の名を忘れざる
西生ゆかり

 リチャード・ギアとトム・ハンクスは一時期私の中で同類だった。名前が2音だからだ。姓と名という大いなる差はあるが、記憶の分類としては2音の名前の人としてくくられていて、記憶領域が同じだったのだ。顔は全く違うのに、なかなかひどい話である。
 人の名前を覚えるのは苦手な方だ。しかし句会の時に「この句は〇〇さんの句」とすぐにインプットされるのはどういう記憶の回路なのだろう?
 土谷さんという人がいる。以前同じコミュニティに「つちたに」さんという人がいて、今いる人は「つちや」さん。「つちやさん」を私は先に音で記憶したのであまり間違えないが、先に文字で記憶した人は「つちたにさん」と言いそうになることがあるそうだ。
 記憶は感情を伴うと定着しやすいが、音との結びつきもなかなか強そうである。

   名を忘れ香水の名を忘れざる

 その人の名は忘れてしまったが、つけていた香水の名は忘れない。名を忘れてしまったその人はどんな相手なのか、どんな関係性なのか想像が広がる。
 ある主題を上回る重要な情報があれば記憶の優先順位はそちらが高くなる。人の名が記憶からこぼれてしまうほど印象深い香水とは。
 この句はきっぱりと詠んでいるようで思い浮かぶ場面には幅がある。
 まず、作者が香水の銘柄に精通している場合。名もプロフィールもしっかりと紹介してもらったのに、その人がつけていた香水から受け取った印象があまりにも強かったのである。香りがきついのか、最高傑作か。その結果人間の名よりも香水の名の方が強くインプットされてしまった…という読みがひとつ。素直に考えればこちらであろう。
 名を忘れてしまったその人は、あるいはそこにいなかったのかもしれない。A子さんが今日個性的な名の香水をつけていた(あるいは買っていた)という話題で盛り上がる。すぐに思い浮かぶのは「プワゾン(POISON)」だが、「力士」などというのも気になった。香水の名のインパクトが一個人の個性を上回り、人の名よりも香水の名の話の方が盛り上がってしまったのだ。少々遠回りな読みではあるが、こちらにも現実味を感じる。
 具体的な場面はほかにもありそうだ。しかしこの句が心にとまるのは「名を忘れ」に関する情報が大胆に省略されているからである。誰の名を忘れたのだろう。あるいは人の名ですらないかもしれない。試みに補ってみると<その人の名を忘れ香水の名を忘れざる>ということになる。こうしてしまうと香水の存在感が半減する。原句では名を忘れた人物を背後に置くことにより香水が深く心に刻まれる。
 忘却がテーマの一句だが、句そのものはもう忘れられないものとなった。

『パブリック』(2025年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



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