非常口に緑の男いつも逃げ
田川飛旅子
(『薄荷』1982年)
人気だと聞いたアニメの『呪術廻戦』を見ていて、気になった敵キャラに「花御(はなみ)」というのがいる。植物の人に対する恨み辛みが結晶化した精霊みたいなもので、植物と人間は共生できないから人類を滅ぼす側にまわっている。配色は植物というより菌類っぽく、マッチョな体つきだが植物だからか性別は不明。そしてめちゃめちゃ強い。かように、人が創造する物語の中で植物に人格を与えるとき、人類の敵に回ることが少なくないような気がする。人類は植物を、というより、それに代表される物言わぬ自然環境をさんざん痛めつけてきたので、恨みを買っていると自覚しているからなのだろう。
さて、掲句の「緑」のことである。この一語を季語とカテゴライズすることには正直抵抗があるが、『角川大俳句歳時記』には「新緑」の傍題で掲載されている(ただし、現代俳句協会の編んだ『現代俳句歳時記』は色の一つとして無季の分類をし、掲句を掲載している)ので、敢えてこれを植物扱いしてみよう。この「緑」はさわやかな初夏の緑のことなので屋外だが、非常口はふつう屋内にある。では「非常口」を比喩的な表現としてみよう。その設定を考えると、内側は非常事態となり、外側には比較的安全な日常があるはずで、いつもそこへ逃げている「緑の男」というのはなんだかポストモダンっぽい感じがするが、それはさておき、緑が新緑だというなら、これを「新緑男」と人格化することも許されるだろう。そしてこの句でいつも逃げるものとして前景化しているのは緑の男であるから、見えない後景には、逃げない緑の女を設定することもできるだろう。さらに、この「非常」が何者にとっての非常な世界なのか、つまり、植物にとっての非常と、人類にとっての非常を反転させるとき、この句から見える景色は違ってくる。植物男はいつも人類の世界から逃げ続けるが、いつかは非常口から花御のような人類を敵とする存在が現れてくるかもしれない。
と、普通に読めば当然あの建物の中の非常口を示すピクトグラムを連想するものを、敢えて深読みをした。理由がないわけではない。Twitterでのピクティストの内海慶一氏の指摘によれば、この句集の出た1982年こそ、あの非常口のサインの緑の男が誕生した年なのだそうで、だから作者がこのピクトグラム知って詠んでいようとも、この句が詠まれた同時代には、あれが身近なものとしてぱっと頭に浮かぶ読者はほぼいなかったことになるのである。だからあえてSFっぽく読んでみたのだけれど、実際のところ、1982年にこの句の読者になった人々の頭の中で「緑の男」となっていたものは、いったい何だったのであろう?
(橋本直)
🍀 🍀 🍀 季語「緑」については、「セポクリ歳時記」もご覧ください。
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【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。