ハイクノミカタ

あひふれしさみだれ傘の重かりし 中村汀女【季語=五月雨(夏)】


あひふれしさみだれ傘の重かりし

中村汀女
(『汀女句集』)

梅雨の時期は、突然の雨による出逢いや相合傘、雨宿りなど恋の発展がある。若い時には、傘を持っていても忘れてしまった振りをして同じ傘を分かち合い、肩を触れ合わせたこともあった。お互いに傘を持っていると、広げた傘の分だけ距離ができてしまい、淋しいこともある。

学生時代私は、同性の友人と過ごすより異性の友人といる方が気軽で楽しかった。気さくな関係なのだが、男女が一緒にいれば恋の噂も囁かれてしまう。それも笑い飛ばして楽しめてしまうような男友達がいた。

タケルには、高校生の時より交際している恋人がいた。飲み会の途中でも彼女から連絡があれば駆けつけてゆくような一途な同級生だった。私もまた、恋人から「逢いたい」と言われれば、飲み会をドタキャンしてしまう一筋な恋に溺れていた。お互いにあまり逢えない恋人がいることもあって、タケルとは、週に一度は二人で酒を飲んで趣味の話で盛り上がった。

六月の初めのある日、大学の近くの神社の茅の輪を見に行った。近所に住んでいる人が、茅の輪のくぐりかたを教えてくれた。タケルが私の手を握って「くぐろうよ」と言った。8の字を描くように回る途中、ふいに強く握ってきたその大きな手にどきりとした。神社の鳥居を抜けると雨が降り出した。お互いに持っていた傘を開く。道中、会話が聞き取れず近寄るたびに傘がぶつかり合い、その雫が肩を濡らした。そのたびにタケルは、皺くちゃのハンカチで私の髪や腕を拭った。結局、近くの居酒屋で雨宿りをすることになった。「最近彼女がデート中に、友人から呼び出されたと言っては帰るんだよ。どう思う」「実は、私の彼もそうなの。付き合いだとか仕事だとか言って、ドタキャンされるの。お互い束縛しない交際をしようということだったから、嫌だとは言えなくて」「分かる分かる。俺も、友人関係も大事にしようねなんて言って始めた交際だから、行くなとか言えないんだよね。時々、無理して彼女に合わせているような気がする。分かり合えなくて淋しいんだ」「ほんとね。淋しくて浮気したいぐらいよ」。店を出るとまだ雨が降っていた。傘を開こうとする私の手を掴んでタケルが言った。「今、君のことが好きだって言ったら信じてくれる」「信じるよ。だって、タケルに彼女がいなかったら、きっと押し倒してたもの」「俺もそうかも。大人の彼氏がいるって知ってたから口説けなかった」。振り込んでくる雨から庇うようにタケルの大きな傘が私の体を包んだ。その瞬間、私の携帯電話が鳴った。恋人からだった。「逢いたい。どこにいるの」と。いつになく情熱的な恋人の声に胸が高鳴った。タケルが「じゃ、お幸せに」と言って去っていった。

あの雨の夜の会話はいったい何だったのか。その後、双方の恋人が急に誠実になってしまったため、友情とも恋情ともつかぬ関係は有耶無耶になった。六月末日の夏越の日だった。茅の輪を一人でくぐっていたらタケルがやってきた。「ここに来れば逢えると思った」「私も」。その日は朝から雨だった。茅の輪をくぐり抜けた後、傘を開こうとする私の手をタケルが掴むことはなかった。駅まで歩きながらタケルが言った。「俺が彼女と別れたら付き合ってくれる」「別れないでしょ」「君だってそうだろ」「まあね」「これで良かったんだよな」「そうだよ」。触れ合った傘の雫が一つになって流れた。

タケルも私も追いかけるのが好きな性格だ。恋をする淋しさに酔っている。お互いに恋人がいると分かっているから惹かれるのだ。二人が恋人同士になった瞬間にこの楽しい関係は終わってしまうだろう。体ではなく傘が触れ合うだけの関係だからこそ心が華やぐのだ。紫陽花で埋まる小径を選び、並んで歩くのはもっと近づきたいから。迫りくる紫陽花の雫にびしょ濡れになりながらも傘の距離が縮まることはない。いつまでも好きなままでいたいから越えられない関係もあるのだ。

あひふれしさみだれ傘の重かりし
中村汀女

作者は明治33年、熊本県生まれ。地主の娘として育った。女学校時代、「ホトトギス」に入会し、高浜虚子に師事。同じ九州出身で同門の杉田久女にファンレターを送り、交流が続いた。20歳の頃、大蔵官僚と結婚し、夫の転勤に伴い国内各地を転々とした。後に東京に定住。47歳の時、俳誌「風花」を創刊、主宰。昭和を代表する女流俳人である。〈外(と)にも出よ触るるばかりに春の月 汀女〉〈秋雨の瓦斯(ガス)が飛びつく燐寸かな 汀女〉〈咳の子のなぞなぞあそびきりもなや 汀女〉などの句は教科書にも掲載され、俳句に興味のない女性にも人気の作家である。

掲句が恋の句として理解されているのは、〈あひふれし〉という表現があるからだ。また、五月雨(さみだれ)は、和歌の世界では恋による心の乱れを引き出す言葉である。ひと昔前の俳人は、実際に恋をしていなくとも、恋を引き出す表現を用い、俳句の抒情を広げた。〈重かりし〉は、雨を含んだ傘の重さであると同時に想いの重さである。

触れ合ったのは傘なのか、それとも肉体的な触れ合いのことなのか。過去の助動詞「き」の連体形である「し」の解釈が難しいところだ。男女が触れ合った後に差した傘が重く感じたともとれる句である。普通に考えれば、触れ合ったのは傘であろう。

雨には、涙などの濡れた情感が付きまとう。掲句を恋の句として捉えた場合、祝福された関係ではないことが想像される。触れて乱れて重たい恋なのだ。それでも止められない、引き摺ってしまう恋。汀女にそんな恋があったのかどうかは分からないが言葉の力とは恐ろしい。

さみだれは、旧暦の五月の頃の雨であり、梅雨の時期の長雨をさす。人の心も鬱鬱とする。恋をしていればなおさらのことである。晴間の見えない恋ほど激しいものはない。相手の心も自分の心も持て余してしまう。そんな少し大人の恋の物語を想像してしまった。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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