ハイクノミカタ

夕焼や答へぬベルを押して立つ 久保ゐの吉【季語=夕焼(夏)】


夕焼や答へぬベルを押して立つ

久保ゐの吉)


七月が来た。梅雨は続いているけれど、最初の頃よりも雨がくっきりしてきたような気がするのは、私だけだろうか。東京はしばらく雨の予報。でも、それを超えれば、なんて気が少しする金曜ですよ。

その雨が終わって、梅雨が明ければきっとよく見えるだろう「夕焼」は夏の季題。暑い一日の終わりに、あたりを日の色に染めながらどっぷり沈んでゆく太陽。また、明日も暑い一日になるだろう。そんな中…

 夕焼や答へぬベルを押して立つ

どうしたんだ。「押すベル」はいくつかの状況があるけれど、オーソドックスで夕焼のあるところと言えば、やはりドアチャイムだろう。夕方、人を訪ねて行ったが、留守であったか、あるいはそもそも鳴りさえしなかったか。轟轟と太陽に焼かれて、色を深めてゆく夕焼の中で、ベルを押す人物は誰ともつながることなく立ち尽くしたまま、その姿も濃い影も暗がりへ取り込まれてゆく。

久保ゐの吉は明治七年福島県の生まれ、東京帝大医科を経て、のちに九州大学に耳鼻咽喉科教室を開いた。若いころから和歌に親しむ一方で、大正の末に妻・久保より江の勧めで句作に入ったという。

ただの訪問かも知れないし、妻の留守への帰宅ということも、医師であれば往診もあったのだろうか。ベルを押して立つ姿は特殊なものではないし(私が日課に見ている英国ミステリーでは、一時間に何回も見られるシーンだ)、淡々と描かれる景色に、何か特定の感情といったものは感じられない。しかし、どこか通り過ぎることができないものが、この句にはある。

理由は一通りではないだろう。それぞれが、自分の経験にある夕焼と、灼けたベルのボタンの触感と、首にあたる日差しと、そしてどこにもつながらない動作を思い、味わう。

雨の週末、少し世間から離れるのもいいかなと、始まる前には思うもので。

『ホトトギス同人句集』(1938年)所収

阪西敦子


【阪西敦子のバックナンバー】
>>〔39〕夾竹桃くらくなるまで語りけり   赤星水竹居
>>〔38〕父の日の父に甘えに来たらしき   後藤比奈夫
>>〔37〕麺麭摂るや夏めく卓の花蔬菜     飯田蛇笏
>>〔36〕あとからの蝶美しや花葵       岩木躑躅
>>〔35〕麦打の埃の中の花葵        本田あふひ
>>〔34〕麦秋や光なき海平らけく       上村占魚
>>〔33〕酒よろしさやゑんどうの味も好し   上村占魚
>>〔32〕除草機を押して出会うてまた別れ   越野孤舟
>>〔31〕大いなる春を惜しみつ家に在り    星野立子
>>〔30〕燈台に銘あり読みて春惜しむ     伊藤柏翠
>>〔29〕世にまじり立たなんとして朝寝かな 松本たかし
>>〔28〕ネックレスかすかに金や花を仰ぐ  今井千鶴子
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>>〔26〕日の遊び風の遊べる花の中     後藤比奈夫
>>〔25〕見るうちに開き加はり初桜     深見けん二
>>〔24〕三月の又うつくしきカレンダー    下田実花
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>>〔20〕来よ来よと梅の月ヶ瀬より電話   田畑美穂女
>>〔19〕梅ほつほつ人ごゑ遠きところより  深川正一郎
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>>〔2〕クッキーと林檎が好きでデザイナー  千原草之
>>〔1〕やゝ寒し閏遅れの今日の月      松藤夏山


【執筆者プロフィール】
阪西敦子(さかにし・あつこ)
1977年、逗子生まれ。84年、祖母の勧めで七歳より作句、『ホトトギス』児童・生徒の部投句、2008年より同人。1995年より俳誌『円虹』所属。日本伝統俳句協会会員。2010年第21回同新人賞受賞。アンソロジー『天の川銀河発電所』『俳コレ』入集、共著に『ホトトギスの俳人101』など。松山市俳句甲子園審査員、江東区小中学校俳句大会、『100年俳句計画』内「100年投句計画」など選者。句集『金魚』を製作中。



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