サイネリア待つといふこときらきらす
鎌倉佐弓
(『潤』)
サイネリアは菊科の園芸品種。晩春の頃に赤や青色などの花を鉢植えいっぱいに咲かす。小学校の卒業式の日、壇上を囲むようにサイネリアが並んでいた。その鉢植えが卒業記念品として在校生より卒業生に手渡された。花の色は様々で何色だったと言いながら見せ合ったりした。その数週間後の中学校の入学式で入学祝いに貰った花もサイネリアであった。どちらも淡い紅色をしていた。淡い紅色の花は、これから始まる恋を予感させた。
女性の恋は、待つものである。通い婚であった平安時代、高貴な男性には通うべき女性が複数いた。基本的には、身分の高い女性を優先するのが望ましいが、『源氏物語』の夕顔のように身分は低いながらも毎夜寵愛された姫君もいた。
『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱の母は、摂関家の藤原兼家に熱烈に求愛され恋仲となる。しかし兼家には、時姫(藤原道長の母)という正室がいた。さらには作者が子を産んだ後、別の女性の家にも通い始める。〈歎きつつひとり寝(ぬ)る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る〉という歌はその頃に詠まれた。足の遠のいた恋人を待ち続ける夜。今夜も逢えないのかと歎きながら一人寝て、夜明けまでの時間がどれほど長いことか、他の女性と過ごしているかもしれない貴方は知るはずもないでしょう。
現代の恋でも、週末にしか会えない恋人からの連絡を待ち続け絶望の朝を迎える女性は沢山いる。でも待っていられる間はまだ希望がある。心のどこかでいつか来てくれるという想いがあるからだ。待つことが楽しいこともある。
大学時代、同級生の男の子に映画に誘われた。友達の気安さで「その映画見たかったのよ」なんて言って待ち合わせの時間を決めた。ところがその前夜、ショットバーのアルバイトが長引き明け方に帰宅。起きたら待ち合わせの時間を2時間も過ぎていた。携帯電話もまだ普及していなかった頃なので慌てて待ち合わせの場所に行った。絶対にもういないだろうと思いながら。彼は、待っていた。「なんで待っているのよ」と私が言うと彼は「待っていたかったから」と言った。その時私は、初めて彼の気持ちに気付いた。その後はひたすら謝罪し映画を観た。彼の気持ちは嬉しくて心が揺らいだが、友達は友達のままでいた方が良い。
また別の男性の話だが、彼は学生時代、片想いの女性に告白するため、花束を抱えて藤棚の下で2時間待ち伏せをしたことがあるらしい。いつもより遅い時間に通りかかった彼女に花束を渡すと、「長い時間待っていてくれたのですね」と彼の腕を撫でた。夏の終わりの頃で、男性は沢山の蚊に刺されていた。蚊にも負けない男性の情熱に感動したのか、彼女は彼と交際することになったという。その男性は現在、古稀を過ぎているのだが、お酒に酔うと人生の勲章のように「待ち伏せ」話をする。あの時は、緊張していて蚊に刺されていることに全く気が付かなかったとか。
女性だけでなく男性も待つことはあるのだ。恋が成就するかしないか、期待と不安に包まれながら待っていた時間は、美しい想い出となったようだ。
サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓
恋人とのデートは女性にとって特別なもの。数日前から着ていく服を決め、当日は朝早くから髪型をセットし丁寧に化粧をする。人生で一番美しい姿でデートに臨む。少し早めに着いてしまった待ち合わせ場所。心を落ち着かせるために駅前の花壇を眺める。サイネリアの鮮やかな赤や青が心を躍らせる。今日の逢える日をどれほど待ち焦がれたことか。恋をしている時は、見える景色が違う。何気ない小さな花も輝いて見え、恋しい人と一緒に見たいと願う。
待っている時間は、これから過ごす恋人との一日に期待を膨らませ、胸が高鳴っている。やがて訪れる別れの刻など考えもしない。いつか待たなくてもよい日が来ることを信じて、遥かなる未来へ限りない妄想が光の渦を巻いているのだ。
(篠崎央子)
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】