白梅や天没地没虚空没
永田耕衣
(「而今・只今」2013年沖積舎)
東日本大震災から10年が過ぎた。あの地震が起きたときは金曜日で、私は自宅で出講先の試験の採点をしていた。揺れからして尋常ではないことはすぐわかり、テレビをつけると東京湾のどこかのコンビナートで火の手が上がっていた。その後大津波があり、福島で原発が壊れていくのだが、翌日になって突如入院していた父が危ないから親族を呼べと医者が言っていると家族から電話がきた。慌てて飛行機のチケットをとり、土日で成績業務を片付け月曜朝に職場で処理し、その足で羽田空港に向かった。この間、最寄りの鉄道は動いておらず、動いている路線までバス移動することなどに大幅に時間を費やした。羽田でフライトを待つ間、まわりは母子連れだらけで、「疎開」という言葉が浮かんだ。その時、普段ならなんということもない番組を流しているテレビのモニターには、原発の建屋が吹き飛んでいる映像が流れていた。地元の空港に着くと、待ち受けていたローカルメディアが親子連れに駆け寄ってカメラを向けた。そんなわけで、地震で大変なことになっている時、遠く離れた所で、被災と同時に違う大変なことが起きているであろう人々のことをいろいろと考えた。
さて、掲句は耕衣が阪神淡路大震災で被災した経験から詠まれた句と言われている。耕衣は自宅で被災し、その家屋は倒壊したが、たまたま二階のトイレにいて無事であったという。なんといっても「天没地没虚空没」という高度に抽象された造語に迫力があるのだけれど、この語はどう読まれているのだろう。例えば、「天が没し、地が没し、虚空すら没す」という風だろうか。そうすると、激しい地震に遭遇した主体の感覚/認識が詠み込まれたものと解釈することができる。これら三つの新造熟語が「日没」と同じ構造ならそういうことだろう。しかし、例えば「水没」は「水に没す」であり、この構造であれば、「天に没し、地に没し、虚空に没す」の意となるだろう。こちらは一個人を離れ、死んでいった多くの人々の死に場所及び魂のありかを示しているようにも読める。もちろん、両方の文脈が含意されていると考えてもいいだろう。違う見方をすると、耕衣のこの句は震災詠における「水没」以外の部分をかなり言いおおせているようにも見える。その後の私たちは、耕衣の詠まなかった部分にいかほど手が届くだろうか。
(橋本直)
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【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。