厄介や紅梅の咲き満ちたるは 永田耕衣【季語=紅梅(春)】

厄介や紅梅の咲き満ちたるは

永田耕衣

 高速道路を走っているとよく目にする「きぬた歯科」の看板。院長の写真が印象的だ。大きな看板の広告といえば人気俳優やミュージシャン、モデルが登場するのが当たり前だが、あの普通のおじさんの写真にはインパクトがある。「きぬた歯科」の院長は本当に普通のおじさん。看板広告を出そうと決めて誰の写真を看板に使うのか検討していて行き詰まった際、試しに撮ってみた自分の写真を「うさんくさい」と感じた。そのうさんくささがかえって良いのではないか?と採用したのだそうだ。

 看板に磨き抜かれた容姿の有名芸能人が使われていたら、何の引っ掛かりもないだろう。普通のおじさんだから引っ掛かるのだ。きれいな看板は景色として素通りしてしまうが、だからこそ何度見てもいやな気持ちにならないのかもしれず、別の良さがある。

  厄介や紅梅の咲き満ちたるは

 「厄介や」で始まる既視感のない一句。紅梅が咲いて美しい、嬉しいなどと正面から賛美するのではなくその先にある心の散らかりように目を向けている。

紅梅に何の思い入れもなく、美しさを感じなかったら厄介と感じることもなかっただろう。紅梅が散れば桜の開花も気になり始める。花に心を奪われる日々が始まるのだ。

紅梅から厄介という心情に辿り着いた点が唯一無二で、大いなる引っ掛かりとなる。季語が枯蔦や草取ではなんとつまらない句になることだろう。

 この句に出会ってまず思い出したのが

   世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし   在原業平

 桜はいつ咲くのだろうか、咲いたらいつ散ってしまうのだろうか、葉桜になってしまったがまだ残っている花はあるだろうか…など、桜をめぐっては思いがかき乱されることばかり。この世に桜がなければこんなにかき乱されることはないのに。

 この歌を踏まえてあえて桜に近い紅梅で挑戦したという可能性はないだろうか。同じような思いを別の花に託すとしたら?ひまわりやコスモスでは「厄介」という心持ちとは相性が悪い。ミモザや木蓮など春に咲く他の花にも置き換えてみたが、「厄介」と言い切って詩になるものは見つからなかった。

 季語の紅梅にじっくり向き合うことも必要だが、そこから沸き起こる思いを心の奥底から引き出すには大変なエネルギーを要したはずである。季語の向こう側には対象に心底没入しないと到達しないのである。

『吹毛集』(1955年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


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