抱きしめてもらへぬ春の魚では
夏井いつき
(『伊月集』)
春の魚というと鰊(にしん)や公魚(わかさぎ)、桜鯛などが思い浮かぶ。確かに抱きしめるほどの大きさではない。鰆(さわら)になると1メートルを超すことがあるので、釣り人が抱きかかえている映像をよく見かける。ただ鮮魚店に並ぶ鰆は60センチを超えたぐらいで、サゴシ(50センチ以下の鰆)と変わらない。あまり大きすぎても美味しくないとされる。すらりと長く艶やかな魚体は、抱きしめてみたい気もするのだが、夏に出回る鰹(かつお)のような貫禄はない。
高校の保健の先生は、若くふくよかな女性であった。新任にしては手際が良く、さばさばとした性格で、女子にも男子にも人気があった。貧血で倒れた女子をお姫様抱っこして保健室まで運ぶような逞しさがあったかと思うと、ボタンを繕ったり花を生けたりする女性らしさもあった。高校の保健室には、授業をサボりたい仮病の生徒も来るため、少々キツイ発言もあるが、慕われていた。ある時は、若い教員の悩みを聞き、一緒に泣いてることもあった。当時は、カウンセラーの先生が居なかったため、心のケアも保健の先生の役割だったのだ。私などは、よく恋愛相談を聞いて貰った。スキンシップの多い先生で、「頑張れ」と言っては抱きしめてくれた。豊満な胸が心地良かった。
私の友人のハルナは、ラグビー部のダイキに想いを寄せており、二人は仲が良かった。休み時間に宿題を見せ合ったり、授業中も手紙を交換したりしていた。誰もが恋仲だと疑わなかったのだが、ハルナが言うには片想いとのこと。ダイキは高校2年生の秋に、足の怪我の悪化により部活を辞めてしまう。その後は大学進学を目指して猛勉強を始めた。時折、足の痛みを訴えては保健室に行くことがあった。休み時間になるとハルナはいそいそと様子を見に行く。「早く告白しなさいよ」とけしかけたのだが「今は怪我で落ち込んでいるから、もう少ししたら」とのこと。そして、3年生に進級した春、高校在学中に恋人同士になりたいとの想いが募り告白を決意した。
ゴールデンウイークを控えた土曜日の放課後、霞ケ浦の岸辺にある公園に誘った。鰡(ぼら)の幼魚の群れが水面に渦をつくっていた。「足痛いし、勉強もしたいし、早く帰りたい」と素っ気ない態度を見せるダイキに「じゃあ、手短に言うね。私たち、付き合わない?」と告げた。「ごめん。俺、好きな人がいる」。心のどこかで分かっていた答えだった。「誰なの?」「それは言えない。ハルナとは一緒に居て楽しかった。できればずっと友達でいたかった。俺、足を怪我してから自信がなくなって、気付いたんだ。恋じゃないなって。守りたいとか抱きしめたいとか思わないんだ。うまく言えなくてごめん」。ハルナは思った。ダイキの秘めた恋の相手はきっと儚げな女の子なのだろうなと。
その後も二人は仲が良かった。ハルナは、いわゆるハツラツ系の美少女で、日焼けした細い体にポニーテールの似合う明るい子だ。ダイキの想い人が分かったのは、卒業式の午後。ハルナが保健室に挨拶に行くと、カーテン越しにダイキの声が聞こえた。「俺、大学に入学したらまたラグビーを始めようと思います。勝つためではなく趣味として。ちゃんと勉強もします。だから・・・数年後、俺が立派な社会人になったら結婚して下さい」。「アハハ。頑張って」保健の先生がダイキの背中を叩いた気配がした。「ダイキ君が立派な社会人になる頃には、私はきっと他の人と結婚してるわよ」。あっさりと断られたダイキのプロポーズを聞きハルナは思った。私にはきっと色気が足りなかったのだと。
そんなハルナも大学時代には、恋人ができるが「子供っぽい」とか「疲れる」という理由で振られてしまう。就職して年上の上司と恋をしたときに、初めて自分に足りなかった何かに気付いたという。命がけの恋を知ったハルナは、しなやかな美しさを持っていた。
抱きしめてもらへぬ春の魚では
夏井いつき
作者は、テレビ番組『プレバト!!』で超有名になったいつき組長。芸能人に対しての辛口というよりは毒舌の俳句評が面白い。近年において、空前絶後の俳句ブームを巻き起こした。いつき組長は、昭和32年愛媛県生まれ。大学卒業後に国語科教諭として松山市の中学校に赴任。松山市は、近代俳句の礎を築いた正岡子規とその高弟である高浜虚子・河東碧梧桐の出身地だ。夏目漱石が『坊っちゃん』を執筆したことでも知られる。小説は、俳句雑誌「ホトトギス」に発表された。松山市は「俳句のまち」である。毎年8月には、高校生たちによる俳句甲子園で賑わう。
松山での教師時代から独学で俳句を学んだ作者は、やがて職を辞し俳人へと転身。黒田杏子に師事。40歳の時に、俳句集団「いつき組」を結成。プライベートでは、教師時代に結婚し1男1女を授かるも姑と母の介護などを経て離婚。46歳の時に現在の夫である加根光夫氏と出逢う。当時は、生活苦などを理由に再婚をためらったという。だが、この再婚が作者の人生を大きく変えることとなった。
掲句は、教師時代の句と推測される。結婚するまでには、いくつもの恋があり、また生徒達の恋愛模様も見てきたはずだ。同時期の句で〈からつぽの春の古墳の二人かな いつき)がある。遠足などで訪れた遺跡なのだろう。古墳の中は空っぽなのだが、埋葬者の生まれ変わりのように恋の続きを紡いでいる二人が佇む。
現代の少女達はサヨリのように細い。抱きしめたら壊れそうだ。少女は、痩せることに情熱を燃やすが、男性からすると抱き心地が良くない。猫でも魚でも、重量感がある方が心を満たしてくれる。鮎だって春よりは夏の方が旨いし、見た目もセクシーだ。
夏の魚というと、鰻や鯰、飛魚・鰹など。しなやかさと強さを持つ魚が多い。脂肪もたっぷり。夏の季語である金魚や熱帯魚は鮮やかな鱗で人を惹きつける。春の魚では太刀打ちできない。
21歳の頃、10歳年上の男性に恋をした。当時の私はピチピチギャル。若さと元気だけが取り柄だった。でも男性が惚れたのは37歳のバツイチ女性。しっとりとした雰囲気で細やかな気遣いのできる人だった。恋のライバルはいつしか憧れとなり、気が付けば彼女の仕草や会話術、服装なども真似るようになった。恋愛術も学ぼうとしたが、そればかりは感情で動いてしまう私には真似できなかった。
30歳を過ぎた頃、5歳年下の男性と交際した。相手は大学院を卒業して就職したばかり。まだ学生気分を引き摺っていた。「携帯ショップの担当の女の子が20歳でさ、可愛いんだよね」「じゃあ、デートにでも誘えば?」「随分な自信だね。年上の余裕ってやつ」「私は、21歳の時に37歳の女性に負けたから。10歳年上だった男性が彼女を選んだ理由、今は分かるの」「それって、俺が大人の恋を知らない子供だって言いたいわけ」「男の子は、若いままでいいのかもね」。嫉妬して欲しくて、追いかけて欲しくて若い女の子の話をした彼の気持ちが分からないわけではなかった。その幼さが新鮮でありながらも疲れた。男性もまた春の魚のままでは、強く抱きしめては貰えないのだ。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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