【第30回】
暗峠と橋閒石
広渡敬雄(「沖」「塔の会」)
海抜445メートルの暗峠は、生駒山の南側に位置し、大阪と奈良を最短距離で結ぶ山道として古代から利用され、伊勢参りでも賑わい、現在も地蔵堂や石燈籠、石畳の道が残っている。この辺りを小椋山と言い、椋嶺峠と称したのがなまったもので、峠からの河内平野は茫洋として広い。
芭蕉は、最晩年の元禄7(1694)年9月9日の重陽の節句に奈良からこの峠を越えて大坂に行き、同年10月12日、南久太郎町の花屋仁左衛門方で51歳の生涯を閉じた。峠の大阪側に芭蕉の「菊の香」の句碑、奈良側には、東国から九州に向かう防人の〈難波門に漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そたなびく〉の万葉歌碑がある。
たましいの暗がり峠雪ならん 橋 閒石
菊の香にくらがり登る節句かな 松尾芭蕉
花満つを暗と呼ぶ峠かな 澁谷 道
芭蕉越えて戻らぬ峠葛茂る 品川鈴子
ゆすら咲く峠の風に隙間なし 塩野谷 仁
煤掃きの一戸暗峠かな 多田なりひさ
落葉掻峠への道また訊かれ 小池康生
〈たましいの〉の句は、昭和56年1月の作、蛇笏賞受賞句集『和楮』に収録。「その土地を知らない者でも、一読してそのイメージが湧きあがって来る。暗という漢字がどこか望郷であったりまた漂泊の詩情を呼び起こす」(川口真里)、「自在である。ゆくところ、思うところ,息吹するところ、全てが俳になり、詩になる。ただどっぷりと閒石俳句の魅力に浸かればよい」(宗田安正)等の鑑賞がある。
橋閒石は、明治36(1903)年金沢市に生まれ、本名は泰来、俳号は加賀藩の漢学書道の家柄だった祖父の号(石圃又は閒遊)に由来する。諸種の疫病で二年の休退学後、金沢第二中学(現金沢錦丘高校)卒業し、旧制四高を経て、京都帝国大学文学部英文学科に入学。父母兄が相次ぎ死亡する中、卒業後は、新設の神戸高等商業学校(現神戸商科大学の前身)教授となり、神戸に移る。
昭和7(1932)年、29歳より旧派寺崎方堂門下として、俳諧文学、連句の研究と実作に努める。これ以降、英文学と俳諧と表裏一体の生涯が始まる。同18(1943)年、十八世として日本三大俳諧道場・大津義仲寺の無名庵を継承した方堂から「四空窓」を譲られ、以来その庵号を名乗る。同20年3月の神戸空襲で、家財蔵書一切を失う。学徒動員で学生と共に出向いていた川崎造船の俳句部を指導しつつ、同24年創刊の俳句・連句・随筆を三位一体とする月刊誌「白燕」を創刊し主宰(のち代表)。同26年の第一句集「雪」以降生涯十句集。
同27年、『俳句史講話』上下巻を補正して合冊にした『俳句史大要』、英国随筆家ウイリアムス・ハズリットの作品七編を翻訳した『日時計』を刊行した。神戸商科大学を定年退職後は親和女子大学で英文学を教え、学長も務めた。神戸俳文学会を創設し、晩年に至る程まで俳諧の世界を深め、現代俳句協会幹事にもなる。その間和田悟朗、澁谷 道、柿本多映等を育てた。
句集『荒栲』『卯』を経て同59(1984)年、第七句集『和栲』で第18回蛇笏賞、同63年、『橋閒石俳句選集』で第三回詩歌文学館賞受賞。平成4(1992)年、第十句集『微光』を刊行し、同年11月26日に逝去。享年89歳。「白燕」は和田悟朗が継承し、同15年「橋閒石全句集」(沖積舎)が発行された。第四句集以降は「現代仮名遣」を用い、「かな」の使い方の名手とも言われる。
句集「荒栲」の後記に「喜びも嘆きも、安らぎも苦しみも、病み衰えまで含めて一切遊ぶことを願って来たし、それらの句が人の目に映ることは、「あそび」の冥利に尽きる」と自身の作句信条を述べ、句碑が一切ないのも潔い。
「その胸中は詩の真実に生きようと古式に則りながらも泥まぬことを旨とした」(澁谷 道)、「誰よりも芭蕉を最も尊敬し、虚と実(欧風表現の「仮面と素面」)の矛盾的合一という確かな一体を「雲を踏む確かさ」との名言で把握した」(和田悟朗)、「一生貫いたものはその身辺の清らかさと優游精神、虚無の思い」(正木ゆう子)、「俳壇に対して常にアウトサイダーの位置を保つことで、己が「つれづれ」(灰汁の抜けた・囚われのない心)を大切にしてきたのは特筆に値する」(四ッ谷龍)、「句集『卯』で抽象俳句に達し、句集『和栲』で、ものの光を捉える認識とやわらかな感情が一枚になる境涯に至った」(恩田侑布子)、等の評がある。
柩出るとき風景に橋かかる 『風景』
蝶になる途中九億九光年 『卯』
故山我を芹つむ我を忘れしや 以下『和栲』
夏風邪をひき色町を通りけり
火の迫るとき枯草の閑かさよ
露草のつゆの言葉を思うかな
空蝉のからくれないに砕けたり
階段が無くて海鼠の日暮かな
白山が見え玉乗を忘れめや
顔じゅうを蒲公英にして笑うなり
三枚におろされている薄暑かな
縄とびの端もたさるる遅日かな
噴水にはらわたの無き明るさよ 以下『微光』
冬麗や磧のなかに道ありて
体内も枯山水の微光かな
送り出てそのまま春を惜しみおり
蛍の夜更けて楕円に似たりけり
ラテン語の風格にして夏蜜柑
銀河系のとある酒場のヒアシンス
唐辛子そこまで向きにならずとも
老人と別れてからの真冬かな
身体に滲んだ金沢の文化と雪への郷愁、若くしての両親との別れ(母への永久の思慕)に加え、旧派(反子規,親芭蕉)の下地のもとでの連句修行、更に英文学(殊に随筆)と一時影響を受けた社会性俳句という様々な要素が良い意味での土壌となり、『和栲』で一気に開花した。
(「たかんな」2021年9月号より転載)
【執筆者プロフィール】
広渡敬雄(ひろわたり・たかお)
1951年福岡県生まれ。俳人協会幹事。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、年第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。「沖」蒼芒集同人。「塔の会」幹事。著書に『俳句で巡る日本の樹木50選』(本阿弥書店)。
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