椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子【季語=椿(春)】


椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ

池田澄子
『ゆく船』


 椿は、年末から咲き始める。木枯しの後の冬麗に咲く冬椿はあだ花のように場違いな横顔を晒す。年が明けて寒に咲く椿は、日差しの隙間より赤い唇を滴らす。やや霜に褪せた唇は、叶わぬ恋の残像のようだ。梅と桜の合間を縫って開く椿は、鮮やかな唇を地面に落とす。人魚の肉を喰らい不老不死となった八百比丘尼のように。

 幼稚園に入る前であろうか、祖母が私を背負って散歩をしてくれた。春間近の村は、まだ霜柱が立っていた。祖母は、蕾の椿を手折り、背中の私に赤い花弁を指で開かせてみせた。春になると、椿をもぎ取って中の蜜を吸うように言った。椿の蜜は濃厚で仄かな香を持つ。椿の花弁の底に口を当てて蜜を吸う甘い記憶は、今にして思えば官能的な行為であった。

 報われない恋を経て、結婚を諦めた三十代半ばの頃、年末にとある男性と恋仲になった。浅草の冬椿が色褪せていて古着のような自分を思わせた。年が明けて、浜離宮にて逢引をした。男性は、私が気合いを入れて作ったサンドイッチを冷たい椿を見ながら美味しいと食べてくれた。その年は、浅春に東日本大震災があり、余震に怯える椿を二人で眺めた。それから一年後、その男性ととある町で一緒に暮らすこととなった。沢山の物件を見て、愛の巣となるマンションを決めた。近くには、椿園と呼ばれている公園があった。まだ家具も無いマンションの部屋で段ボール箱をテーブルにして、赤い鮭を食べた。鮭の切り身は、椿のような灯火となった。

  椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ   池田澄子

 椿は『万葉集』の頃から詠まれている。〈わが(かど)の片山椿まこと(なれ)わが手触れなな土に落ちもかも〉は、物部廣足(もののべのひろたり)の歌である。この歌は防人(さきもり)の歌で「私の家の門に咲く片山の椿よ、お前は私の手が触れていないのに土に落ちてしまうのか」と遠き地にあって、故郷の椿を心配するかのように詠まれている。実は〈椿〉は女性への喩えであり、自分が留守にしている間に恋人が他の男のものになってしまうことを心配している。手も触れていないことから、相手の女性には恋の想いも告げぬまま出立したと思われる。

 椿は〈はなびらの肉やはらかに落椿 飯田蛇笏〉とも詠まれているように官能的な花である。年末の冬日和から咲き初め、寒の厳しさを縫って開き、春には満開となる。暗がりに咲くのもまた奥ゆかしい。

 当該句は〈逢いたくなっちゃだめ〉と表現していることから、逢ってはいけない事情があるのだろう。椿が開き始める頃、世間は春の決算期。忙しい合間を縫っての逢瀬。大人の女性が、しきりに逢いたいと告げてくる男性を軽くいなしているかのよう。本当は逢いたくて、一緒に椿を見たくてうずうずとしているのだろう。女性は、相手の仕事や環境を考慮して逢いたい気持ちを抑えてしまうことがある。でも「逢いたい」と言われたら嬉しい。相手の男性だってきっと「逢いたい」という言葉を待っているのだ。

 お母さんのように若き恋人をなだめているような一句。情熱的に「逢いたい」と言われ心が揺らいでいるのかもしれない。そして自分にも〈逢いたくなっちゃだめ〉と念を押している。「逢いたい」という一言を告げられず寂しい青春時代を過ごしてきた私にとっては、余裕のあるその表現が羨ましい。過ぎ去った恋を思えば、気遣いもプライドも捨てて「逢いたい」と言うべきであった。

 椿の咲く頃、一緒に暮らし始めた男性は情熱的で、睡眠時間を削って私との時間を作ってくれた。「健康を優先して下さい」とも言ったが、その情熱にほだされて結婚することとなった。

篠崎央子


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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