橘や蒼きうるふの二月尽 三橋敏雄【季語=二月尽(春)】


橘や蒼きうるふの二月尽

三橋敏雄


小池光の歌集『日々の思い出』(雁書館・1988)を読んでいると、「佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず」や「真昼間の寝台ゆ深く手を垂れて永田和宏死につつ睡る」といった具体的な人名を詠み込んだ歌を見つけた。『草の庭』(砂子屋書房・1995)には、「河野裕子が永田和宏を叱るこゑゆめの渚のあけぼののころ」という歌があって、永田和宏の「なにげなきことばなりしがよみがえりあかつき暗き吃水を越ゆ」と併せて読むと、ひどくて笑えるなと思った。
俳句では、八田木枯に「残花かな藤田湘子のめがねかな」というのが似たような例だろうか。西村麒麟には「鶴引くや八田木枯なら光る」という木枯を詠み込んだのもあって、この句の季語はいかにも木枯好みであるし、木枯の本名は「光(日刈)」であるから、なるほど、木枯を愛する人は、この句の木枯への愛をそういう点からも読みとるかもしれない。

人名が詠まれていても、それが贈答とか挨拶とか存問とかに必ずしもなるわけではなくて、そういうのとは少し違った読み味になる歌や句があることのは面白い。

三橋敏雄には、「表札は三橋敏雄留守の梅」という自身の名前を詠み込んだものもある。「留守の梅」というのが、よく効いていると思う。
冒頭に挙げた同じく敏雄の「橘や蒼きうるふの二月尽」は、安井浩司に向けたものだという。どちらとも関わりがない私が知っているのだし、たぶん以前どこかで読んだから知っているはずで、その記述を探そうと家中の本をひっくり返したのだが見つからなかった。正直に述べると、そうやって困り果てたのが、この金曜日である。そこから心当たりのある方にご連絡を差し上げて、質問責めにして関係各所をお騒がせした。ただ、残念ながら、今もその記述は見つかっていない。だが、私だけでなく、お伺いしたうちの一人の九堂夜想さんも心当たりがあると言うし、全くの思い違いではないように思う。もし見つけた方がいらっしゃったら、ご一報頂きたい。

さて、『安井浩司選句集』(邑書林・2008)の年譜によれば、安井が三橋敏雄と初めて会ったのは、1975年の『阿父学』出版記念会のようである。この句は『鷓鴣』(南柯書局・1979)に所載されているので、この四年の間に安井へ宛てた句だったのでは推察される。

安井は閏日の生まれなので、「うるふの二月尽」ということなのであろう。また、「蒼きうるふ」というのは、チンギス・ハンのことである。私の手持ちの『阿父学』には、若い頃の安井の、たぶん家居であろう写真が二葉挟まっている。その風貌は精悍な感じで、蒼き狼ことチンギス・ハンを重ねるのも納得は行く。もちろん、安井の詩業を讃え、またその詩業の行先を期待して「蒼きうるふ」と用いたというのもあったかもしれない。
「青」という語やモチーフは、新興俳句において特別の蓄積を持つものであるし、また三橋敏雄の場合は「蒼」を好んで用いている。もし私が敏雄のように「蒼」を好んで用いていたならば、「蒼き狼」なんて言葉を用いる際には、特別に意識を配るだろう(また、通り名というのも扱いが難しいし)。こんなことは勝手な妄想に過ぎないし、敏雄もそうだったろうと言うつもりはないが、ただ「蒼きうるふ」を一義的に用いるのではなく、掛けて用いている点に斧鑿の痕は見られると言えよう。
初出は分からないが、『鷓鴣』の並びでは、前が「寒明けの吊縄の縒弱り果て」、後が「赤土の春の地ひびきあまたたび」であるから、「橘」を詠嘆していても、「二月尽」が季語としては立ててあることが伺える。

この「橘」が謎である。
敏雄と安井に橘にまつわる特別な思い出があったのか。それとも安井の家に植わっていたのか。しかし、「五月待つ花橘」としてもまだまだ早いし、安井の住むあたりだと橘は寒くてどうなんだろうという感じもある。実景を志向した付け方なのか、いまいち確信はもてない。あるいはこれも掛けて用いているのか、それとも安井の詩における何かなのか。ただ、言葉の上で、「橘」の凛々しさは「蒼きうるふ」という語と呼応し、よりよいイメージを育んでいるように思う。

もしかすると安井浩司が孤高という語を冠して身にそぐう最後の俳人だったのかもしれない。ご冥福をお祈りする。

安里琉太


【執筆者プロフィール】
安里琉太(あさと・りゅうた)
1994年沖縄県生まれ。「銀化」「群青」「」同人。句集に『式日』(左右社・2020年)。 同書により、第44回俳人協会新人賞


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