妻となる人五月の波に近づきぬ 田島健一【季語=五月(夏)】


妻となる人五月の波に近づきぬ

田島健一
(『ただならぬぽ』)

恋人たちというものは、海に行きたがる。海水浴も楽しいが、触れることの出来ない海を眺めているのもまた心が満たされる。海を恋う気持ちというのは、胎内回帰願望なのだろうか。あるいは、魚類であった時の記憶が細胞に残っていて、生命誕生の海を見ると心が安らぐのかもしれない。いつまで眺めても飽きないのが海だ。

五月になると無性に海が見たくなる。初夏の日射しと涼しい海風に身を晒せば、忘れかけたときめきが蘇ってくる。夫と交際して数か月が過ぎた頃、江の島に行った。神社の裏にある森の小径に惹かれ歩いた。小径は、やがて獣道のように狭くなり、迷路のようにどこまでも続く。「私たちってもしかして迷子なのかな」「出口が全く見えないね」。笹薮に囲まれた獣道は崖の手前で途切れた。崖には梯子が架かっている。「降りてみる?」「ここまで来たら降りるだろ」。梯子を降りると海が広がっていた。崖の合間の小さな砂浜に寄せる波は、透明で静かだった。数時間で一周できてしまう観光地の島にこんな場所があるのかと驚いた。世界で二人だけしかいないような気分になった。絶え間なく押し寄せる波をただ見つめていた。夫は、波を見る私をずっと見ていた。

あれから十年が過ぎ、夫と香川県の沙弥島というところに行った。柿本人麻呂の歌碑がある以外は何もない砂浜だ。人の気配も全くない。恐ろしいほど白く美しい場所だった。夫は、水母の泳ぐ海に足を浸して、若布を引っ張っていた。今度は、そんな夫をずっと見ていた。

とある人が、女性俳人は結婚するまでは恋の句を詠むのに対し、男性俳人は結婚すると恋の句を詠むと書いていた。私の句集もまた、独身時代に詠んだ前半部に恋の句が集中している。恋心を失ったわけではないが、詠んではいけないような気がしていた。海ではしゃぐ夫を見ていたら、もう一度、恋の句を詠んでみても良いのではないかと思った。

妻となる人五月の波に近づきぬ
田島健一

作者は、昭和48年生まれ。中学生の頃より俳句を始め、石寒太主宰の「炎環」に入会。超結社「豆の木」にも参加。平成27年には、鴇田智哉氏、宮本佳世乃氏、生駒大祐氏とともに季刊同人誌「オルガン」を創刊。平成29年に出版された句集『ただならぬぽ』は大きな話題を呼んだ。

私は、かつて「ルート17」という超結社若手句会でご一緒していた。吟行には参加せず、飲み会になると現れるイメージがあった。「健一君は自由な人だから」みんなそう言っていた。すらりと背が高く、快活な性格で人気者なのだが、浮いた話は聞かなかった。結成当時、全員が20代だったグループもやがて30代に突入。俳句を詠む若者は婚期が遅い。飲み会では恋の話も多かった。健一さんは、恋の話に関しては、いつも冷やかす側におり、恋愛には興味がなさそうに見えた。いったいいつの間に結婚したのやら。

掲句は、結婚間近の女性を眩しく詠んでいる。五月は、「聖五月」「マリア月」とも呼ばれ神聖さを感じる期間である。子供の日や憲法記念日を挟む黄金週間は、新緑がしたたる。その頃の波は「青葉潮」であり生命力に溢れる。独身最後のデートであろうか。海に行ったのだ。波打ち際で吹かれる婚約者は輝くばかりに美しく映ったことだろう。

 〈鏡中のこがらし妻のなかを雪 健一〉。妻の心象風景を垣間見た一句。雪の白さ冷たさに、触れがたい憧憬の念を思わせる。〈桜降るどのひとひらも妻の暮らし 健一〉。散る桜の花びらの一つ一つに妻の暮らしを思い、愛おしく感じている。〈薔薇を見るあなたが薔薇でない幸せ 健一〉。薔薇のように刺もなく散ることもなく、寄り添ってくれる妻は、聖母のような存在なのであろう。

男性は、手に入れた女性には興味がなくなるという考え方があるが、実際には、結婚してからの方が愛情深くなるように思う。一方で女性は、結婚後は家事や育児のことで頭がいっぱいになる。それは、恋とか愛とかが前提のことであり、再確認する必要がないのだ。女性俳人が結婚後に恋の句を詠まなくなる理由、男性俳人が妻俳句を詠む理由の答えになっているかどうか。

結婚は女性よりも男性の方が、勇気がいる。交際期間が長く、空気のような存在になってしまった相手でも求婚する時には不安が付きまとう。結婚に向けての準備は、お互い無我夢中だ。結婚が間近になって初めて「ああ、この人と結婚するんだな」という実感が湧く。胸の奥よりむずむずと喜びが湧き上がる。

20代半ばの頃だったと思う。結婚式を数日後に控えた同級生の男性に「今、どんな気持ち?」と聞いたことがある。「彼女は年上で、華やかな容姿に惹かれて口説いた。交際してみたら料理も上手くて、気の利く人だった。だけれども、結婚を迫られたときは、少し引いてしまった。友人たちはまだ独身が多いし、結婚したら今までみたいに遊べなくなってしまうような気がしたんだ。結婚に向けての段取りも強引で、勝手に決めるなよと思った。先日、式場との最終確認を終えた後、海に行ったんだ。砂浜ではしゃぐ彼女を見ていたら、素直な気持ちになって、いろいろありがとうって言えた。その瞬間に、急に嬉しくなった。これからは、彼女と一緒に頑張ろうって思った。あらためて妻になる人が美しく見えた。ここまで来たら逃げられないから、決意を固めたってだけなんだけどさ」。最後は、照れ臭そうだったが喜びで溢れていた。

マリッジブルーは、女性に多いと言われているが男性にもある。ただ、男性の場合は、一度決意したら不安も迷いも飲み込んで頑張ってしまう傾向がある。結婚は勢いが大事だ。気持ちに勢いをつける上でも妻となる人の美しさを再確認しなければならない。独身最後のデートは海がおすすめである。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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