夏山に噂の恐き二人かな  倉田紘文【季語=夏山(夏)】


夏山に噂の恐き二人かな

倉田紘文
(『慈父悲母』)

8月11日は「山の日」である。平成26年に「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨として制定された祝日だ。夏の季語の「山開き」は、5月初旬から7月初旬に行われる各山の登山開始の日である。対して登山期間終了の「山じまい」は季語にはならない。富士山は7月1日に山開きが行われ、8月26日の「吉田火祭」、翌日の「芒祭」を経て山じまいとなる。一方で「高きに登る」「登高」という秋の季語もある。旧暦9月9日の「重陽の節句」の行事であるが、最近では秋の登山ぐらいの感覚で詠む人も多い。そうすると、8月11日は、山開きから山じまいの間で、少し早い登高ぐらいの時期となる。

 夏山というと5月の新緑の山だけでなく、夏休みの林間学校や高原のコテージなども思い浮かぶ。山菜や桑の実などを摘みに入る近所の山も遠くに見える山も夏山である。また、山は逢引の場所でもあった。山の麓にある社の裏手を登ってゆくと、奥まった所に小さな祠があり、その場所は人目に付かない。渓流沿いの岩場もまた語らいをするにはちょうど良い。連山の峠の茶屋や大樹の下など目印はいくつかある。登山が趣味ではなくとも、見晴らしの良いところで弁当を食べるのは気持ちが良い。夏山でハイキングデートをする恋人たちは今も多い。

夏山に噂の恐き二人かな
倉田紘文

作者は、昭和15年大分県生まれ。俳人であった父の影響で幼少期から俳句に親しみ、19歳の時に高野素十に師事し「芹」に入会。素十の勧めにより32歳で「蕗」を創刊、主宰。43歳、別府大学の国文学の教授となり、後に名誉教授。新聞俳壇、NHK俳壇の選者を務めた。平成26年、大腸癌により74歳で死去。〈秋の灯にひらがなばかり母の文 紘文〉〈蛍待つ闇を大きく闇つつむ 紘文〉のような抒情性のある句や〈渦二百渦三百の春の潮 紘文〉〈秋の波同じところに来て崩る 紘文〉といった写生句などが知られている。〈み佛に少し離れてゐて涼し 紘文〉〈歩かねばわれ春愁に沈みさう 紘文〉など、平明かつ自在な詠み方を見せた。

掲句は、〈逢ふ日なし今日夏山に別るれば〉と同時に「芹」に発表した。二句の前書きには「田舎にはまだ親戚関係とかその他いろいろの旧習あり、若い人達の心のままにならぬ固い扉のようなものがある」という記述があったらしい。主宰の素十の判断かどうかは不明だが「それ等の言葉は却って無い方がよかろうと削ったのであった」とのこと。

その後も数年にわたり、夏山の恋の続きを発表した。〈夏山の別れ一生涯つゞく〉〈夏山の昔となりし二人かな〉〈かなかなや昔の恋をまた恋ふる〉〈噂なほ二人にのこり月の頃〉〈夏山に別れし二人夏来る〉〈鳥雲にをはりし恋はそのままに〉〈夏山に逢へば涙のあふるらん〉。

これらの句は、他人のことではなく作者の実体験としか言いようがない。削られた前書きと句から想像するに、夏山で逢引をしていた二人は田舎の旧習により別れるしかなかったが、何年経っても色褪せずに想い続けていたことが分かる。噂さえも許されない恋、結ばれてはいけない恋、だから恋をした証として俳句に残したのだろう。前書きが無くても、ロミオとジュリエットのような恋だったことは分かる句である。以下は、私の妄想である。

あれは、大学の夏季休暇中のことだった。書き物に疲れて裏山を散策していた。別の集落へと続く山は途中に見晴らしの良い峠がある。岩に腰かけて水を飲んでいると、向こうから重そうな荷物を背負った若い女がやってきた。隣村の神主の娘で、近くの村の若者たちからは「巫女さん」と呼ばれる憧れの対象だった。自分もまた友人に誘われて噂の美女を見に、隣村の祭に出掛けたことがあった。神事の時の緋袴姿も盆踊りの浴衣姿も美しいが、おさげ髪の野良着姿も美しい。「やあ、重そうですね。手伝いましょう」「あら、どこの村の方ですか。私はこの先の村の社に届け物をするところなのです」「僕は、その社の近くに住む者で、ちょうど帰ろうかと思っていたのです」。荷物は今度の祭に使うらしい用具の他にトマトやキュウリなどの入った籠であった。「祭の準備の手伝いですか?」「はい。その社は遠縁にあたるものですから。差し入れの野菜を持たされたのはいいのですが、重くて」。巫女は、歩き慣れているらしい山路を足早に歩いた。籠を背負った自分は何度か木の根に躓きそうになった。「すみません。普段は大学で書物ばかり読んでいるので、情けないかぎりです」「まあ、学生様ですか。そうだ、うちの社に伝わる古い文書があるので、興味があれば今度見に来てくださいな」「自分の専攻は国文学なので、それは有難いことです」などと話しているうちに社の裏手に到着した。「ここまでで大丈夫です。この村の学生様に手伝って貰ったことが知れたら怒られてしまうので」。自分の肩に食い込む背負い籠の紐にそっと手を伸ばした巫女さんからは少女ではなく女の匂いがした。

家に戻り、机に向かったものの落ち着かなかった。あの巫女さんと出逢ったことを村の連中に話したら、きっと羨ましがられるだろうな。でも内緒にして欲しいって言われたから、二人だけの秘密にしておこう。読み物も書き物も進まないまま陽が傾いていった。夕涼みに外へ出ると、足は自然と社へと向かっていた。蜩の鳴き始めた山路の入口で立っていると巫女さんが行きよりも重そうな荷物を背負って歩いてきた。「やあ、また逢いましたね。差し入れのお返しですか」「そうなんです。野菜のお礼にと果物を頂きました。西瓜いかがですか?この辺りでは珍しいでしょ」「いえいえ、うちにもありますから。それより、向こうの村まで送っていきますよ」。再び巫女さんと二人で山路を歩いた。西瓜は野菜か果物かなどという他愛もない話などしながら。峠で夕焼けを見ながらひと休みした。「ここからは、下りなので一人で帰れます」「せっかくだから近くまで送らせてください」。隣村の社に着いた時には、薄闇になっていた。「お礼がしたいので、明日の昼にまた峠で逢えますか」と別れ際に巫女さんが言った。「じゃあ、明日」と自分は忙しなく手を振った。真っ暗になる前に再び峠を越えなければならなかったからだ。

その日から毎日のように峠で逢った。一時間ぐらいの束の間の語らいであった。二週間が過ぎたある朝、父が言った。「お前、隣村の神主の娘と逢っているそうじゃないか」「荷物を運んであげたお礼に古文書の写しを見せて貰ってるだけですよ」「あの娘は、神主の養女で実の父母は素性も分からない者だそうじゃないか」「誰がそんなことを。彼女は神主の娘として生きてきたし、若者の憧れの的のはずです」「手が届きそうで届かないものほど苛立つものはない。嫉妬による噂だろう。お前には縁談もあるのだから、気を付けなさい」「父さんが勝手に決めた話じゃないですか」「とにかく隣村ではお前に対する悪い噂も流れている。もう逢うのは止めなさい」。腹を立てて家を飛び出した。居ても立っても居られず峠に行くと、巫女さんが来ていた。ひっつめ髪に頬被りをしていた。人目を忍んで来たのだ。「噂が立っているみたいですね。将来有望な学生様には申し訳ないことです。もうあちらの村には行きませんし、峠にも来ません。お別れを言えて良かったです」「僕は噂なんて気にしません。言わせておけば良いではないですか」「私が捨て子だとか売女だとか言われるのは構いませんが学生様が詐欺師とか盗人とか言われるのは耐えがたいです」「そんな話にまでなっているのですか。もうこんな村は捨ててどこか遠くに行きましょう」「そんなことをしたら双方の親族に迷惑が掛かります。私には出来ません。ここで、さよならしましょう」「待って下さい。もう逢えないなんて耐えられません」「こうしている間にも誰かが見ているかもしれません。今後どんな蔭口を叩かれるかと思うと、もう恐ろしくて」。逃げるように去っていく巫女さんの後ろ姿が美しくて追えなかった。ただ呆然と蝉の声に囲まれていた。

夏季休暇が終わり大学に戻った頃、風の噂で巫女さんが旧家の後妻に納まったことを知った。自分もまた父が決めた縁談が進んでいた。翌年もその翌年も夏になるたびに山に登ったが巫女さんに逢うことはなかった。

結婚して数年が経った夏祭の夜、泥酔した同級生が嫁に言った。「こいつは学者面してるがね、実は遊び人なんだよ。まあ、そういう俺もあの尻軽女に色目を使われたことはあったけどね」。嫁は「昔の話でしょ」と笑った。同級生はかつて巫女さんに憧れていた若者の一人だった。本当に噂通りの二人だったら別れずに済んだのかもしれない。あまりにも若過ぎて真面目過ぎて、親族や村に怯えていた。結ばれることが叶わないからこそ、初恋は永遠に美しく哀しいのだ。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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