逃げの悲しみおぼえ梅くもらせる
平田修
(『曼陀羅』1996年ごろ)
逃げるとは果たして悲しいことなのか。確かに用例を見れば、なにか恐ろしい存在から逃げる、辛いことから逃げる、やらなければいけないことから逃げる……という具合で、一般に否定的なニュアンスをもった言葉ではある。否定的でない「逃げる」の使い方として思い浮かぶのは競馬の”逃げ馬”くらいのものだ。
いっぽうで、逃げるということは人が生きていくうえで必要不可欠な行為でもある。直面するすべての物事に全力で向き合い続けていると、人はその重圧に耐えきれず瓦解してしまうからだ。向き合う必要のないもの、向き合うべきでないものから逃げることで自分の主体性を保持するという経験は、多くの人間にとってそのまま成長の過程でもあるといえる。鏡像段階を終えたのちに理不尽な「父の名」を受け容れることで人間は自己を確立してゆくというラカンの理論においても、「父の名」の理不尽さが自らに直撃することから逃げてその責任を己の無能以外のなにかに転嫁することが成熟における重要な過程であるとされる。逃げるとはすなわち人が人として生きていく行為そのものであると言い換えてもよいほどだ。
そう考えると、逃げることは大いなる悲しみを伴った行為に思えてくる。やがて死ぬ人生をそれぞれに全力で生きる我々の生命活動は、常に潜在的な悲しみを抱えているからだ。無論それは人生というものをネガティブに捉えるということではなく、どんなに素敵で楽しい人生であろうとその最後に訪れる死という終焉を前提としているという点において、人生という現象自体が悲しみを孕んでいるということである。
その悲しみに自覚的になってしまうことは、人生そのものが持つ悲しみ以上に悲しいことであるように思う。一度気づいてしまった悲しみはあらゆる思考や行動にまとわりつき、決して離れることがない。その風景はちょうど拭いても拭いても曇る窓ガラスのようであり、美しいはずの梅の花すら素直に見ることができなくなってしまう。我々が日々を労働や余暇といった活動で埋め尽くすのは、生きる悲しみの自覚という最大の悲しみから逃げるためなのかもしれない。
【お知らせ】
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場所は南1〜2ホールのJ31〜32。みなさまのご来場をお待ちしております。
(細村星一郎)
【執筆者プロフィール】
細村星一郎(ほそむら・せいいちろう)
2000年生。第16回鬼貫青春俳句大賞。Webサイト「巨大」管理人。
【細村星一郎のバックナンバー】
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>>〔55〕春の山からしあわせと今何か言った様だ 平田修
>>〔54〕ぼく駄馬だけど一応春へ快走中 平田修
>>〔53〕人體は穴だ穴だと種を蒔くよ 大石雄介
>>〔52〕木枯らしや飯を許され沁みている 平田修
>>〔51〕ひまわりの種喰べ晴れるは冗談冗談 平田修
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>>〔39〕さくらへ目が行くだけのまた今年 平田修
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>>〔35〕死に体にするはずが芒を帰る 平田修
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>>〔32〕木枯らし俺の中から出るも又木枯らし 平田修
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>>〔29〕俺の血が根っこでつながる寒い川 平田修
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