誰をおもひかくもやさしき雛の眉
加藤三七子
(『無言詣』)
3月3日は桃の節句である。古代中国では、桃は邪気を祓うと考えられており、その花の開花する時期に定められた式日であった。桃は花も実も若い女性を思わせるため、桃の節句は、女の子の成長を祝い祈る日へと変化してゆく。人形を形代として川に流し、穢れを祓う風習とも融合し、現在の雛祭になる。旧暦の桃の節句は、新暦の4月に相当する。埼玉県秩父市では、旧暦で雛祭を行うため4月3日まで雛壇が飾られている。桃の花が郷を染める時期である。
雛壇は、早く飾って早く仕舞うのが良いとされる。早く仕舞わないと娘の婚期が遅れるといわれている。私の実家では、3月も終わりの頃まで飾っていたのだが、旧暦に合わせていたということにしておこう。晩婚になったのは、運命の人を探していたから。姉にいたっては未婚。一族の期待に応えなくて良いのもまた分家の気軽さである。
雛壇が嫁入り道具の地域もある。またある地域では、女の子が生まれた際、嫁の実家が雛壇を購入し、嫁ぎ先の家に贈る風習もある。豪華な雛を飾ることで、家の格を競い合った。分家に生れた私の家に飾られた雛壇は、本家のお下がりであった。10歳の頃には、別の親族に女の子が生まれたため譲った。その後も雛壇は親族の間を経巡り、現在は本家に戻っているらしい。雛祭の後、川に人形を流す「雛流し」の風習がない土地のため、流転の雛となっている。
雛祭が過ぎた頃、栃木県某所の下流で魚釣りをしていたら、髪のくずれた女雛が一体流れてきた。岸辺にたゆたっていたので、本能的に助けようとした。父が「穢れを流すための雛だから触ってはいけない」と言った。ふと、『源氏物語』宇治十帖の浮舟のことを想った。薫君に囲われている身でありながら匂宮に惹かれ、苦悩の末に入水した姫君である。藻草のように揺らぐ黒髪から垣間見えた眉が寂しげに見えた。
江戸川乱歩の小説『人でなしの恋』は、結婚して間もない若妻が、夜な夜な夫が倉の二階で密会している女性の正体を突き止めたら、相手は人形であったという物語である。1995年に映画化された松浦雅子監督の映像が美しい。夫と絡み合う着物姿の人形が恐ろしいほど艶めかしい。
童謡の「うれしいひなまつり」(作詞:サトウハチロー)の一節「お嫁にいらした姉さまによく似た官女の白い顔」には、様々な説がある。普通に考えれば、幼い妹の視点で、若い兄嫁が官女に似ていることに気付いたと解釈すべきであろう。最上段の女雛ではなく下の段の官女に似ているというのもひと癖ある。内裏の女雛は自分だと捉えたのだとしても、兄嫁が官女というのは、いかがなものか。好意的に解釈すれば、官女は憧れの役職で上段の女雛よりも若く見えるからか。
人形には、みなそれぞれ自分の想いを重ねるものである。人形師も自身の想いを人形に彫り込めている。
誰をおもひかくもやさしき雛の眉
加藤三七子(『無言詣』)
作者は、大正14年生まれ。21歳の頃、教壇に立ちながら恩師の影響で短歌を詠む。23歳で結婚。第3子を出産した32歳より俳句を始める。2年後「かつらぎ」に入会し、阿波野青畝に師事。52歳の時「黄鐘(おうじき)」を創刊主宰。平成17年、79歳で死去。〈四十の恋には似ずや黒牡丹 三七子〉〈抱擁を解くが如くに冬の濤 三七子〉〈夕顔や恋の遊びも終りとす 三七子〉など、雅な俳句を残した。
掲句は、最上段の女雛の眉を詠んだ句であろう。確かに、きりりとした男雛の眉と比べるとやや下がっており、優しい表情を見せる。一段下の官女の眉は凜としている。女雛は当然ながら隣の男雛に恋をしていると思われるのだが、〈誰をおもひ〉と表現しているところが掲句の面白さである。雛は正面を向いているため、その優しい眼差しは遠くを見つめている。人形師の恋の想いまでも想像させてしまう句だ。
高校3年生の時、前に座っている男子がよく話しかけてきた。冗談が上手で、授業中に浮かんだギャグなどを振り返りざまに発するので笑ってしまう。彫の深い顔立ちの、三枚目キャラクターだ。黙っていればモテるのに。夏休みが近くなった頃より、ドキリとするような優しい眼差しをするようになった。意思の強そうな眉を少しさげて語りかけてくる。あぁ、この人は今、恋をしているのだと直感した。相手は、私の隣の席に座るバドミントン部の女子。試合による公欠が多いため、私が休み時間や放課後に授業の内容を教えていた。三枚目男子には、私たちが仲良く見えたのだろう。実際に仲が良かった。勉強を教える代わりにバドミントンを教えて貰ったり、好きな漫画を交換し合ったりしていた。三枚目男子が私に話しかけるのは、その子の気を惹くためであった。バドミントン女子は、夏休み中に怪我で入院してしまう。男子に電話をして「一緒にお見舞いに行こうよ」と誘うと「もう行ってきた。振られた」との答え。二学期になっても男子の眉は、優しいままであった。大学受験やら何やらが過ぎて、卒業式の日に「もう一度、告白してみたら」とけしかけた。「それはもう、いいんだ」。男子の眼は遠くを見ていた。今度は誰に恋をしたのやら。男子の眉はいつも表情豊かで、目が離せなかった。
化粧をするとき、眉の描き方がいまだに分からない。女性の眉には流行があるため、そのつど研究する。もともとの美形眉ではない私がどんなに研究して描いたところで不整合を起こすだけなのだが。それでも「そんなに憂いを帯びた眉をして、また悪い男に引っかかったわね」と言われることが多かった。描いても描いても隠せない表情が眉にはあるのだ。
雛人形は、本来の眉の上に「置き眉」を施す。平安時代の化粧の名残である。公家は、男も女も眉を剃り少し上のところに薄墨で眉を描く。古い時代の雛は、本来の眉は描かず、置き眉のみである。瞼より離れた位置に施す繭の形の眉は淡く、細目の瞳の力を強調させる。不整合を感じさせない美しさがある。
掲句の眉は、現代的な雛の眉であろうか。それとも置き眉か。十二単を纏った雛は、平安時代の姫君である。高貴な身分の姫君は、結婚相手しか愛することが許されなかった。だが、歌を詠むときには本当に恋しい人への想いを託す。隣の男雛以外の誰かに恋をしている女雛。秘めた恋心を隠そうともしない眉からまた新しい物語を妄想してしまった。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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