ハイクノミカタ

婚約とは二人で虹を見る約束 山口優夢【季語=虹(夏)】


婚約とは二人でを見る約束

山口優夢
(『セレクション俳人 プラス 新撰21』)

東京の虹は短い。雲と雲の合間にさっと差す。仕事中に茶菓子として配られる八分割のバームクーヘンのようだ。高層ビルの15階に勤めていたが、半円状のくっきりとした虹を見る機会はなかった。

私の故郷は茨城県つくば市なのだが、夏になると毎日のように夕立があり、その後には、東の方角に半円状の虹が立つ。祖母が言っていた「あの虹は霞ケ浦からでた虹だよ」と。虹は、手の届かないほど遠くに見えた。

高校生の時に通っていた塾は、土浦港近くにあり、霞ケ浦が望めた。高校からバスで15分、家からは40分ほどの距離である。8階の教室の窓は、雷光が横走りする。最初は驚いていたが、湖の近くは雷雨が激しいことを知った。当時は、高校の授業終了から塾の時間までの2時間を土浦駅周辺で過ごしていた。駅ビルの雑貨店を覗くこともあれば、亀城公園を歩いたり、霞ケ浦の港をただ眺めていたりすることもあった。

高校3年生のゴールデンウイークが過ぎた頃であろうか。学校前のバス停で1年生の時にクラスメイトであった佃煮屋の若旦那と乗り合わせた。霞ケ浦の畔にある老舗の佃煮屋の長男で、学級委員長も文化祭の実行委員も進んで名乗り出る優等生。くじ引きで負けて役職を持った私をいつも助けてくれた。冗談の上手な人気者だが、従姉と恋愛関係にあることから「近親相姦」と冷やかされていた。「私の両親もいとこ同士の結婚だし、法的に婚姻が認められているのに近親相姦なんて失礼よね」と言ったら「うちの場合は、同じ敷地内で姉弟のように育ってきたし、苗字も同じだし、自分でも近親相姦かもって思ってるからいいんだよ」と笑った。確かに、私の父の実家のつくば市と母の実家の大洗町は、車で2時間ほどの距離があり、元の苗字も違う。結婚前の父母は、幼馴染とはいえ盆と正月のみに逢える間柄だった。母は、つくばに立つ虹を見ては「あの虹の向こうに私の故郷があるのよ」と言っていた。親族といえども文化も風習も違う母の実家は海に近く私の憧れだった。

マンモス校と言われる高校に通っていたため、別々のクラスになった佃煮屋の若旦那と話すのは久しぶりだった。「彼女とはうまくいってるみたいだね」「あ、別れた」「え、そうなの?ごめん。実は先週、土浦駅近くで若旦那が花柄のワンピースを着た、大人っぽい女性と一緒にいるのを見ちゃったの」「あの日、別れることになったんだ」。バスの窓に急に雨が吹きつけた。駅前で降りると雷雨が二人の頭を叩きつけた。彼は、私の手を掴み「とりあえず、マクドナルドに入ろう」と言った。

若旦那の恋人は二つ年上で、地元の短大に通っている。彼女の父は、若旦那の父の弟で、土浦駅前の商店街に支店を構え繁盛しているという。そんな従姉に縁談があった。相手は、取引先の網元の次男で婿養子に入りたいと積極的な申し出をした。彼女もまんざらでもないのか食事やドライブの誘いを断らない。若旦那もまた従姉との恋愛関係に気付いた親族から別れるよう諭された。なんと言って良いか。一族の事情なので、話を聞いた私も黙り込んだ。ふいに雨の止んだ窓から夕陽が射した。「今なら虹が見えるかも。行こう」と、再び私の手を握った若旦那が走り出す。

土浦港から見えた霞ケ浦の虹は太く濃く間近に見えた。「つくばに架かる虹は、ここから出ていたのね」。若旦那が私の肩を抱き寄せ「キスしてもいい?」と言った。「はぁ?彼氏でもないのに、なんで」「じゃあ、付き合っちゃう?あの虹の脚元近くにレインボーってホテルがあるんだ。今度そこで虹を見ようよ」「それって、ラブホテルでしょ。行ったことあるの?」「可愛いな。本気にした?今日は塾をサボってデートしようよ。ホテルじゃなくてカラオケに行こう」「塾の月謝を払う日だから無理」「真面目なんだね。じゃあ、今度逢ったとき、夕立が降ったらレインボーで雨宿りをしよう。もっと凄い虹が見られるよ」。

塾に着いてからもしばらく鼓動が激しかった。塾をサボってカラオケに行っていたら、何をされたのかとか、心が騒めいた。数日後、別れた恋人から逢いたいとの電話がくるまで若旦那のことが頭から離れなかった。夏休みも近い頃、マクドナルドで時間を潰していたら若旦那がやってきた。「あれから、バスで一緒にならないね。俺の言ったこと気にしてた?」「レインボーに連れ込まれたら困るもの」「悪かったよ。彼女とよりが戻ったから、もうあんなこと言わないよ」「残念、期待してたのに。なんてね。私も別れた彼から連絡が来たの」。何事もなかったかのように笑って別れた。

二年後、大学に進学した私は、ゴールデンウイーク中の土浦を久しぶりに歩いていた。商店街が少し寂れていた。自動販売機の前に若旦那がいた。あっと思った瞬間にジュースの缶を地面に叩きつけた。サイダーが飛沫をあげて吹き出した。彼のジーパンの裾のあたりに虹が立った。声を掛けることが出来ず、引き返した。その場所は、若旦那の従姉の父が経営する支店の近くだった。あの二人の恋は、こじれつつ歪みつつ続いているのだと思った。虹を見る約束をしたのは、私ではなく恋人の従姉だったのだろう。あの夕立の日、塾をサボっていたら、その約束は私にすり替わったのかな。虹が立ちやすい湖畔の街での約束は、叶えられそうで叶わないものとなった。

婚約とは二人で虹を見る約束
山口優夢

作者は、1985年生まれ。俳句甲子園にて、開成高校を優勝に導いた。大学進学後は、東大俳句会にて活躍。大学院時代に角川俳句賞受賞。句集『残像』が話題となった。現在は、読売新聞記者として句作を続けている。妻は、俳人の江渡華子氏。〈野遊びの続きのやうに結婚す 優夢〉学生時代からの交際だ。

東京で暮らす二人は、どこかで虹を見たのだろう。十和田湖近くに生れた恋人は、故郷の虹はもっと大きくて濃いのよと言ったに違いない。「君の故郷の虹を見に行きたい」それが求婚の言葉となった。というのは、私の妄想である。虹というものは、そんなに頻繁に見られるものではない。確かな約束ではないのだ。だけれども、ずっと一緒に居ればいつかは見られる。きっと何度も。

私の友人は、御夫君と登山をするのが趣味だ。二人は仕事の関係で知り合った。大学の山岳部出身の彼より山頂からは円形の虹を見下ろせるという話を聞き、一緒に登山をするようになった。交際の切っ掛けは「君にもあの虹を見せたい」だったとか。高尾山もケーブルカーで登っていた彼女がアルプスの山を足で登っているというから大いに驚いた。恋の力とは恐ろしい。夏場の登山では、雹に見舞われることもある。これも虹を見るためだと頑張った。ところが、いまだに円形の虹を一緒に見たことはないらしい。登山小屋から虹の切れ端を見たぐらいだ。私と同世代の友人は、50歳近くなっても老けないし痩せている。御夫君とも仲が良い。健康的な共通の趣味を持つのは大事だ。それもあるが、円形の虹を一緒に見るという夢があるからだろう。その夢が叶ったとしてもまた、もう一度見る約束をするに違いない。

虹を見る約束とは、その先にあるものを一緒に追い続けるという約束だ。夢とは、叶いそうになると次の夢が生まれる。故郷のつくばで見た虹の先には、海に立つ虹があり、その先にも虹が立つという。そんな果てしない未来への約束なのだ。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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