汗の女体に岩手山塊殺到す
加藤楸邨
目覚めると、首筋や脇にじっとり汗を掻いていた。不快。なんだか参っちゃう。じとじとべたべたと、服飾を通してみても不快な感覚はこの上ないし、なによりも体臭は、いや増す限り。朝のシャワーでシャーッと流したい。でもそんな時間ない。エイト・フォーなどの制汗剤の出番の季節になった。汗は嫌われもの。
一転、スポーツ界に目を向けてみると、若人の汗は爽やか、美しく、今日日、バレーボールが盛り上がっている。俺も僕も、青少年のころバレーボールをやっていたことがあり、レシーブ練習時、体育館の床面の汗にのたうち回ったこともある。練習中フライングレシーブなど敢行しようものなら、床は忽ち汗で濡れる。その度に膝のサポーターで拭いたりしていた。試合中は無論、モッパーが素早く駆け寄り、ささっと拭き取る。動きにつれて、汗は撒き散らされ、コート面も濡れていようというものだが、あまり意識されたことはない。ブロック、スパイクの瞬間の写真をあとで見ると、夥しく空中に汗が散っていて、こんな水分過多の中で、消耗してるんだなと実感させられたりした。
季語は汗。「怒濤(1986)」所収。「岩手山麓にて 八句」と題された連作のなかの一句。岩手山は、標高2,038メートル、岩手県八幡平市、滝沢市、雫石町に跨る奥羽山脈系の成層火山。東の盛岡側から見た姿は、静岡県側から見た富士山に似ていて、その片側が削げているように見えることから「南部片富士」とも呼ばれている。
「汗の女体」が「岩手山塊」へ殺到するのではなく、「汗の女体」へ「岩手山塊」が殺到してしまっているかのような感じがするというのである。女体と岩手山塊が混然一体となっている想念のなかの女体だ。こうしたイメージが彷彿するのは、「汗の女体へ」ではなく、「汗の女体に」とした「に」の助詞の重さだろう。
この句はおそらく昭和59年の6月に「東北寒雷人の集い」で、盛岡、八幡平を訪ねた時の作であろう。この時楸邨は79歳、妻知世子は75歳。知世子には少しずつ、死の影が迫って来ていたが、この句の知世子はこの上なく躍動している。
楸邨は鉄道員の父の転勤に伴い、東京、東北、北陸の各地を転々としているが、東北の一ノ関は楸邨にとっては、啄木の歌に熱中して、北上川の辺りを「やはらかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けとばかりに」「夜寝ても口笛吹きぬ口笛は十五の吾の歌にしありけり」などの歌を愛誦して歩いた運命的な場所であり、悲しみや苛立たしさなど、多感な時期を過ごした思い出深い場所であっただろう。それだけに岩手山を臨みながら歩いた時の感慨は、計り知れないものがあったのではないか。
この句は、芭蕉が那須野で詠んだ一句を想起させる。「奥の細道」には載っていないが、曾良の「書留」に、「秋鴉主人の佳景に対す」という前書の付いた、「山も庭にうごき入るゝや夏ざしき」という句だ。芭蕉の句も、楸邨の句も気力が横溢している。
楸邨は「女体」を詠み込んだ句を幾つか成している。
永平寺出て炎天の女体かな
炎昼の女体のふかさはかられず
息白く泣けば女体はぬくもらむ
芹匂ふ嗅ぎつつ女体とりもどす
女体の奥鳴りいだすごとく羽子をうつ
いなびかり女体に声が充満す
蜜柑買ひて爆心地踏むよ一女体
このように艶っぽい句もまた魅力の一つである。
(中嶋憲武)
【執筆者プロフィール】
中嶋憲武(なかじま・のりたけ)
昭和35年(1960)東京生まれ。
平成6年(1994)「炎環」入会。作句をはじめる。 平成11年(1999)「炎環」新人賞。
平成12年(2000)「炎環」同人。
平成21年(2009)炎環賞。炎環エッセイ賞。
平成29年(2017)銅版画でANY展(原宿)参加。電子書籍「日曜のサンデー」。
平成30年(2018)攝津幸彦記念賞優秀賞。
平成31年(2019)第0句集「祝日たちのために(港の人)」。 「炎環」「豆の木」「豈」所属。
山岸由佳さんとの共同サイト「とれもろ」toremoro.ne.jp
「週刊俳句」で西原天気さんと「音楽千夜一夜」連載中。祝日たちのために
中嶋憲武 著
(港の人、2019年)
価格 1650円(税込)
ISBN 978-48962936232018年、第4回攝津幸彦記念賞・優秀賞を受賞した気鋭の俳人の、句(120句)+銅版画(13点)+散文(17篇)を収めたユニークな第一句集。句は2018年にツイッターで呟いたツイッター句であり、時代の風景にスリリングに迫っている。
■収録作品より
蟻塚を越え来て淋しい息つく
夏炉あかるく人語に星を数へ得ず
海の鳥居の晩春の石は鳥になる
手が空いてゐる月白の舟を出す
葛湯吹いて馬の体躯の夜がある
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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