好きな樹の下を通ひて五月果つ 岡崎るり子【季語=五月果つ(夏)】


好きな樹の下を通ひて五月果つ

岡崎るり子


五月もあと三日でおしまい。桜が、若葉が、と言っていたのはついこの間のことなのにまったく早いものだ。近所の公園の樹々はすっかり青葉を勢いづかせている。

何となくその有り様が自分にとって好もしい木、というものがある。樹相が立派、といった確たる理由もなく、すっと心に入って来るような木だ。

作者もそんな樹木を見つけたのだ。好き、と決めてその樹に会いに行くのではなく、用向きは別にある。通学や通勤、或いは恋人の家かもしれないし、親の介護という場合だってあるだろう。日々その道を通るうち、ふと目に留まった樹がいつしか目印となり、やがて「私の樹」と胸の内に秘かに決めるまでになる。欅、桜、楓・・・。芽吹いた葉は繁り、色づいては枯れて、落ちる。その繰り返しを作者が目にしたように、動かない樹の方でも作者を見守っていたかもしれない。晴れの日も風の日も雨の日も、浮いた気分の朝も泣きたい夕べも、樹はただそこにある。

そして今、眩しさのなかで初夏が終わろうとしている。「果つ」といってもジ・エンドな寂しさはなく、一冊の本を読み終えたような充足が感じられる。次なる季節の新しい章へ踏み出すのを好きな樹が後押ししてくれるかのようだ。

そういえば、私にも気になる木があった。日比谷公園の入り口近く、噴水の側にほっそりと立つ桜。どうしているか(ってこともないけれど)、無性に見に行きたくなっている。

『冬の浮彫(レリーフ)』ふらんす堂 1997年より)

太田うさぎ


【太田うさぎのバックナンバー】
>>〔34〕多国籍香水六時六本木        佐川盟子
>>〔33〕吸呑の中の新茶の色なりし       梅田津
>>〔32〕黄金週間屋上に鳥居ひとつ     松本てふこ
>>〔31〕若葉してうるさいッ玄米パン屋さん  三橋鷹女
>>〔30〕江の島の賑やかな日の仔猫かな   遠藤由樹子
>>〔29〕竹秋や男と女畳拭く         飯島晴子
>>〔28〕鶯や製茶会社のホツチキス      渡邊白泉
>>〔27〕春林をわれ落涙のごとく出る     阿部青鞋
>>〔26〕春は曙そろそろ帰つてくれないか   櫂未知子
>>〔25〕漕いで漕いで郵便配達夫は蝶に    関根誠子
>>〔24〕飯蛸に昼の花火がぽんぽんと     大野朱香
>>〔23〕復興の遅れの更地春疾風       菊田島椿
>>〔22〕花ミモザ帽子を買ふと言ひ出しぬ  星野麥丘人
>>〔21〕あしかびの沖に御堂の潤み立つ   しなだしん
>>〔20〕二ン月や鼻より口に音抜けて     桑原三郎
>>〔19〕パンクスに両親のゐる春炬燵    五十嵐筝曲
>>〔18〕温室の空がきれいに区切らるる    飯田 晴
>>〔17〕枯野から信長の弾くピアノかな    手嶋崖元
>>〔16〕宝くじ熊が二階に来る確率      岡野泰輔
>>〔15〕悲しみもありて松過ぎゆくままに   星野立子
>>〔14〕初春の船に届ける祝酒        中西夕紀
>>〔13〕霜柱ひとはぎくしやくしたるもの  山田真砂年
>>〔12〕着ぶくれて田へ行くだけの橋見ゆる  吉田穂津
>>〔11〕蓮ほどの枯れぶりなくて男われ   能村登四郎
>>〔10〕略図よく書けて忘年会だより    能村登四郎
>>〔9〕暖房や絵本の熊は家に住み       川島葵 
>>〔8〕冬の鷺一歩の水輪つくりけり     好井由江
>>〔7〕どんぶりに顔を埋めて暮早し     飯田冬眞
>>〔6〕革靴の光の揃ふ今朝の冬      津川絵里子
>>〔5〕新蕎麦や狐狗狸さんを招きては    藤原月彦
>>〔4〕女房の化粧の音に秋澄めり      戸松九里
>>〔3〕ワイシャツに付けり蝗の分泌液    茨木和生
>>〔2〕秋蝶の転校生のやうに来し      大牧 広
>>〔1〕長き夜の四人が実にいい手つき    佐山哲郎


【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』



【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

関連記事