ついそこと言うてどこまで鰯雲 宇多喜代子【季語=鰯雲(秋)】


ついそこと言うてどこまで鰯雲

宇多喜代子

俳号を持つメリットは別の人格を生きられることである。まあ、本名の名前(姓ではなく)で呼ばれるのも悪くないけど。ある研究によると、名前で呼ばれると幸福度が上がるという。それは間違いではないように思う。名前を呼びあう関係に冷たいものは少ない。

また、俳号をつける理由に同じものがかぶらないように、というのがある。知っている範囲では「林檎」という俳号はかぶっていないのでその機能は果たしている。句会では通常俳号だけで名乗る*が、俳号がかぶる場合は姓号(フルネーム)を名乗ることで識別するしかない。似た俳号の人がいる時には名乗りに個性があるとありがたい。色々あるがどのような俳号・名前でも名乗りが光っていれば充分に魅力的だ。しょんぼりとした名乗りだと「選句してしまってすいません」という気分になる。

識別可能かつ伝わることの大切さでいうと、新しい言葉や造語が認められるかどうかは不特定多数の人や必要な相手に意味が通じるかどうかにかかっている。新しい言葉が生まれて辞書に載るには改訂の前に充分世の中に浸透している必要がある。最近では出版社が新語を募集したりしているのを見かける。出版社にとっても良い時代になったものだ。

辞書に載っていない言葉でも意味が通じれば良いではないかと思うことはあるが、それは個人の見解であって普及しているかどうかは別の判断となる。逆にたとえ辞書に載っている言葉でも読み手や聞き手の習熟度を都度見極めていくことが必要である。

ついそこと言うてどこまで鰯雲

 「ちょっと近くに出かけてくる」と言い残してどこかに行ってしまった。鰯雲の雄大な空に誘われるがままに歩き続けているのか。どこまで行ってしまったのか。帰ってくるのだろうか。鰯雲を追いかけるように歩きつづける心地よさは他の季節には味わえないとはいえ「つい」で澄む距離ではなさそうだ。しかし「言うて」には大らかな気分が表れている。

出て行った側の視点ともとれるが、見送った側がその人はどこに行ってしまったのかに思いを馳せる方が鰯雲に広がりを感じられる。

「つい最近」はよく使うが「ついそこ」という言い回しには個人的になじみがなかった。しかし「ちょっと近く」といったニュアンスはわかる。辞書に載っている表現で、意味もそれで正しかった。

生まれ変わったら何になりたいかという話になると最近は辞書編纂者と答えている。それを聞いた人はたいてい「え?何を言ってもいいのにそれ?」となる。しかし私は誰よりも明快に言葉について説明するプロへの憧れがあるのだ。はい、俳句では説明しすぎないよう気を付けます。

『雨の日』(2024年刊)所収。

*名乗り
句会では無記名で互いの作品を選びます。自分の句が選ばれた場合名前や俳号を名乗ることで自分の作品であることを参加者に知らせます。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



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