宵山の装ひ解かず抱かれけり 角川春樹【季語=宵山(夏)】


宵山の装ひ解かず抱かれけり

角川春樹
『いのちの緒』

京都の八坂神社の祭礼である祇園祭は、七月一日の「吉符入」より始まり、「くじ取り式」などを経て、「神輿洗い」「鉾建て」「鉾の曳き初め」と続く。祭のハイライトの一つとなるのが十五日、十六日の「宵山」である。露店や夜店が立ち並び、街中にお囃子が流れる。会所では、山鉾の掛装品であるタペストリーや西陣織がきらびやかに展示される。各家では、秘蔵の屏風を公開するので屏風祭ともいう。十七日より山鉾巡行が始まり、「辻回し」などの見せ場がある。長刀鉾を先頭にした巡行の山鉾は三十数基あり、いずれも豪華である。祭は、花笠巡行、遷幸祭などを経て、七月末の「夏越祭」にて終る。十七日から二十四日の間には、無言詣も行われる。八坂神社から鴨川を渡り四条御旅所まで誰とも口をきかずに詣でると秘めた願いが叶うとされる。花街の芸妓が恋愛成就の願掛けをしたのが始まりで、かつては座敷を終えた夜中に詣でていた。初旬に行われる「みやび会お千度」は、花傘巡行に参加する祇園の芸妓が揃いの新しい浴衣を着用して本殿でお祓いを受ける行事で、これもまた祇園祭の華の一つである。祇園祭は、毎年テレビなどでその模様が中継されるが、映画やドラマでその賑わいを見たことがある人も多いだろう。特に宵山の華やかな夜は、何かしらの物語が生まれそうである。

掲句の作者は、映画製作者でもある角川春樹氏。角川書店(現在のKADOKAWA)の創業者である俳人の角川源義の長男として生まれた。角川書店に入社後は、洋画の原作やノベライゼーションを次々と刊行し、書店に新風を巻き起こした。社長就任後には、映画製作に乗り出す。『犬神家の一族』『八つ墓村』では横溝正史ブームを起こし、『セーラー服と機関銃』『時をかける少女』は世代を超えるヒット作となった。映画と同時に原作を売り出すメディアミックスや、現在のライトノベルの源流となるレーベルの企画など、出版業界のカリスマ的存在として名を馳せた。コカイン密輸事件で逮捕された後は角川書店の社長を辞任し、角川春樹事務所を設立した。

俳人としては、37歳の時に父源義が創刊した「河」を継承すべく副主宰に就任。源義没後、主宰を継いでいた角川照子(継母)のたっての願いであった。1982年、第二句集『信長の首』で芸術選奨文部大臣賞および第6回俳人協会新人賞を受賞。1983年『流され王』で第35回読売文学賞、1990年『花咲爺』で第24回蛇笏賞、2005年『海鼠の日』で第5回山本健吉文学賞、同年『JAPAN』で第8回加藤郁乎賞、2007年『角川家の戦後』で第7回山本健吉文学賞を受賞。俳人としてもまさに天才、カリスマである。現在「河」主宰。

〈黒き蝶ゴッホの耳を殺ぎに来る 春樹〉〈向日葵や信長の首斬り落とす 春樹〉など強い表現の句で知られているが、〈流されてたましひ鳥となり帰る 春樹〉のような伝承や信仰を背景とした句も魅力的である。〈ふたりとも煙草の切れし夜長かな 春樹〉みたいな甘い句もある。

宵山の装ひ解かず抱かれけり
角川春樹

掲句は、50代の頃の作と思われるが艶めいた句である。まるで、映画のワンシーンのようだ。〈装ひ〉を解かなかったのは、女性か男性か。俳句は、自分のことを詠むのが基本であるが、客観的な視点で描写することも許されている。また、自分ではない誰かになりきって詠む手法もある。作者が男性と分からずに鑑賞すれば、女性が着物を脱がずに抱かれたと解釈されるだろう。作者を知ってしまえば、映画監督の視点と思ってしまう。〈祇園ばやし抜け出て君を抱きにける 春樹〉という句もあるので、その返しとして女性になり代わって詠んだのかもしれない。いずれにせよ物語性のある句なのだ。以下は、私の妄想である。

宵山の日、祇園の花形芸妓は朝からそわそわしていた。舞の稽古を済ませると、食事もそこそこにして鏡へと向かう。丹念に化粧をし、この日のために旦那から新調して貰った着物に袖を通す。旦那とは、夫婦の契りを結んだパトロンである。旦那といっても妻子持ちなので、世間からしたら妾とか囲われ女になるのだろう。ひと昔前であれば、旦那との間に子供も作れたのだが最近では流行らない。正妻にしてくれる男性からの求婚もあったが、芸妓を続けたかったので断った。今の若い妓は、すぐに結婚して家庭に入ってしまう。それでも芸事は続けて欲しいものだ。出がけに今晩の座敷を確認する。夜中まで複数の掛け持ちである。その中でも旦那の座敷は、政財界の有名人ばかりだ。ふと可愛がっている舞妓が袖を引く。「姐さん、これ」と、小さく結んだ紙を袖に放り込んだ。こっそり開くと「今夜十時」と書かれている。素知らぬ顔で天井を眺めている舞妓に「これ、渡してきて」と結び文を握らせた。走り去る舞妓を見ながら、今宵逢う情夫のことを想った。芸妓とは芸を売る者であり体は売らない。独身の頃なら多少の色恋は許される。だが旦那持ちになった身では、恋愛はご法度だ。旦那のことは好きだが、いつも一緒に居られるわけではない。要領の良い妓は、秘密の恋人を持つ。情夫にもいろいろある。面倒な客や同僚の嫌がらせから守ってくれる用心棒であったり、旦那とは異なる人脈を持つ後援者であったりと、なにがしかの利害関係により結ばれていることも。年下の美男子をつかまえて逢うたびに小遣いを渡している妓もいる。結ばれないけれども相思相愛であり離れがたいことが前提ではあるのだが、芸を極める上での飾りのような面もある。今宵の宵山で逢う彼は、今までの情夫とは違う。命がけで愛してしいるのだ。そして、その恋は絶対に人に知られてはならない。結び文の返事には「いつもの部屋で」と記した。

男はその日、京都で仕事があった。朝早く到着し、休憩も取らずに現場を走り回っていた。夕方からは、祇園で立て続けに接待が入っている。社員を引き連れて八坂神社を詣でるのも、取引先の重役と祭を眺めるのも、道を歩く舞妓を口説くのも仕事の続きである。宵山の日は、家族も呼んでいた。自分が居なくても祭を楽しみ、予約しておいた料亭や旅館で京都を満喫してくれるだろう。それでも少しは顔を見せなければならない。女との約束を夜の十時にしたのは、逢瀬の時間をできるだけ短くするためだ。接待の合間を縫っての一時間にも満たない再会となる。京都での仕事は月に一度あり、数日間滞在する。常ならば女を座敷に呼び、宴の果てた後はゆっくりと語り合う。祇園祭の月は、互いに忙しくそれが叶わなかった。逢いたい、でも逢ったらいつまでも一緒に過ごしてしまう。だから、自分も女も忙しい時間に呼び出したのだ。心のどこかで恋の潮時を感じていた。

女との逢瀬の場は、とある店の一室である。十時きっかりに部屋に入ると女が抱きついてきた。長い口づけを交しながら、帯に手を回す。すると女はその手を握り、「ごめんなさい。時間が無いの」と言った。宵山の夜は、自分も和服を着こんでいた。「似合うのね。脱がすのはもったいないわ」。お互い着物姿のまま愛し合った。せせらぎのような衣擦れの音も、ひんやりとした絹の感触も、心地よく二人を包んだ。祇園囃子の音とともに揺らぐ女の白い顔が、川を流れる一輪の花のように見えた。抱かれたのは女なのか自分なのか。やはり、離れられないと思った。

私は、祇園でも指折りの人気芸妓。年増を過ぎても大年増になっても引退はしない。恋なんて芸の肥やしでしょ。でも、宵山のあの晩のことだけは忘れない。愛していた、愛されていた。だから別れた。翌日の夜中、こっそりと無言詣をした。叶わない恋、叶えてはいけない恋の成就を神様は聞き入れてはくれなかった。だから、宵山で見た華やかな屏風のなかにあの日の恋を封印したの。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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