エリックのばかばかばかと桜降る
太田うさぎ
(『俳コレ』)
昔の少女漫画には、女の子が「ばかばかばか」と言って、男の子の胸を叩く場面があった。昭和の漫画に登場する男の子の多くは、優柔不断で押しに弱く、好きな女の子がいても別の女の子にふらふらと靡いてしまう。ヒロインは、世話焼き女房タイプが多く、好きな男の子だけでなく友人の恋にも世話を焼いてしまう。両想いなのだが、結ばれるまでが長い。ヒロインの発する「ばか」の連発は、読者の心情でもある。
映画『ローマの休日』では、新聞記者のジョーは、家出中のアン王女とスクーターに乗り、ローマを観光する。「真実の口」に手を入れて、腕が抜けなくなるジョー。驚いたアン王女も手伝って何とか腕を引き抜くも「腕が無くなった」と袖をひらひらして見せる。真っ青になるアン王女に「嘘だよ」というふうに、引っ込めていた腕を出す。誰でも分かる簡単なトリックに騙されたアン王女は「ばかばかばか」と言う代わりに拳でジョーを叩く。両手を拳にして交互に打ち付ける仕草が何とも可愛らしい。
少女の「ばか」の連発は、他愛もない場面でも重要な場面でも引きおこる。大抵は、男の子の落ち度によるすれ違いなどを責める時が多い。とある漫画では、少女が父親の仕事の都合で急遽海外に引っ越すことになり、淡い想いを抱いていた少年を橋の上に呼び出す。ところが、何時間たっても少年は現れない。事情を知らない少年は、友人に野球の助っ人を頼まれて、草野球の試合に出ていた。コールドゲームで終わらせるはずが延長戦に持ち込まれ苦戦する。フライトの時間が近づいた少女が諦めて帰ろうとすると、呼び出した少年が野球仲間と笑いながらやってくる。ここで「ばかばかばか」の場面になる。数年後に再会した少年から告白された時、少女には婚約者がおり、これまた「ばか」の連発。その後もすれ違いと「ばか」の連発だったような。
そうかと思うと、別の漫画では、暴走族のリーダーに憧れる少年がバイクを購入しようとアルバイトを始める。そこで出会った気の強い年上の少女を「アネキ」と呼んで慕っていた。アネキは憧れている族のリーダーの恋人であった。暴走族になりたくてバイトをする少年を「ドジ助」と呼び族入りを反対する。アネキの恋人は、族同士の抗争に巻き込まれた末にバイク事故で死んでしまう。葬式の日に柩を叩きながら「ばかばかばか」と泣き叫ぶアネキ。その姿を見てドジ助はアネキを守ろうと決意する。アネキは、大学教授の父親に反抗して不良の出入りする喫茶店で働いていたが、実は優等生。やがて大学に進学する。ドジ助は、アネキと同じ大学に進学するため猛勉強をする。死んだ恋人を忘れられないアネキは、たびたび墓の前で「ばか」を連発。大学時代編では、ドジ助の気持ちを知りながら、死んだ恋人に似た危険な男に弄ばれる。こうなると誰がバカなのか分からない。昭和の漫画は、恋愛と同時進行で将来の夢を追いかけるエピソードも入るのだが、二人が何者を目指そうとしたのかは描かれない。「ドジ助はバカだけど、ずっとアネキの側にいます」ぐらいの結末だったような。人は、恋をするとバカになると言われているので、将来の夢よりも今が大事なのだろう。
エリックのばかばかばかと桜降る
太田うさぎ
(『俳コレ』)
作者は、34歳の時に俳句同人誌「や」に入会。「豆の木」「雷魚」「なんぢや」の同人を経て「街」に入会。現代俳句協会の重鎮で、自由な作風とチャーミングな笑顔が魅力のキャリアウーマンである。2020年に第一句集『また明日』を出版。〈彼が下げ夕張メロン上京す うさぎ〉〈鼻が邪魔ソフトクリーム舐めるたび うさぎ〉〈なまはげのふぐりの揺れてゐるならむ〉。機知に富んだ手強い現実を詠む。
掲句は、句集に収録されていない。週刊俳句編の現代俳人アンソロジー『俳コレ』(2011年邑書林刊)に収録されたことで、すでに誰もが知っている句であったからであろう。句に登場するエリックとは、何者か。皇帝かミュージシャンかスポーツ選手か。ネットで調べると、エリックには「まっすぐに動く」という意味があることから支配者とか勝利を意味する言葉になったらしい。とりあえず、エリックの名を持つ男性ということにしておこう。外国を舞台にした少女漫画に登場する幼馴染の男の子のような名前である。欧米に憧れた昭和の時代には、外国の少女をヒロインにした漫画が流行った。巻き髪の少女が淡い想いを抱く、やんちゃ坊主のエリック。少女の気を惹くために意地悪をする永遠の少年。大人になっても鈍感で優柔不断のままなのだが、少女の危機には、時空を飛び越えて助けにくるヒーロー。エリックには、そんなイメージがある。
現実の世界では「ばか」を連発する場面にはあまり遭遇しないように思っていた。それでも、一度だけ経験がある。夫と暮らし始めた頃、週末に花見の約束をした。近所の光が丘公園は花見の名所でもある。飲み会から帰ってこない夫を待ちながら、徹夜で花見弁当を作った。始発電車で帰ってきた夫を責めることもなく、昼過ぎまで寝かせた。公園に出かけたのは夕方近く。二日酔いの夫は始終頭痛を訴え、花見弁当は食べられることもないまま、花の塵だけが積もった。結局、一時間もせずに撤退。頭痛の治まった夫と真夜中に硬くなった海苔巻きを食べた。「せっかく作ってくれたのにごめん」と言われた瞬間に「ばか」を連発した。これが正しい「ばかばかばか」の使用例といえよう。
大学のアニメオタク仲間の先輩男性は、高校時代吹奏楽部で同じフルート奏者の後輩女子と仲が良かった。休日に二人だけで練習したり、楽器店巡りをしたり、いつ交際に発展してもおかしくなかった。だが、フルート奏者の後輩女子は美少女で自分には不釣り合いだと思っていた。そんな折、不真面目なクラリネット奏者の女子に告白をされる。生まれて初めての告白に舞い上がり、交際してしまう。不真面目な女子の気まぐれだったのか、数か月で振られる。卒業式の日、フルート奏者の後輩女子に第二ボタンが欲しいと言われ「実は僕も好きだったんだ」と告げる。すると美少女の後輩はボタンを投げつけて「じゃあ、何で別の人と付き合ったの?両想いだって信じてたのに。先輩のばかー!!」。桜吹雪のなか、走り去る後輩女子の後ろ姿を見ながら、確かに僕は大馬鹿者だと思ったらしい。それ以後、先輩はアニメの少女しか愛さなくなった。どこまで本当の話なのかは分からないが、いわゆる王道的な「ばかばかばか」の場面である。
本来、女性に「ばか」を連発される男性は、エリックからイメージされるようなイケメンヒーローでなければならない。それでも長い人生のなかでは、一度ぐらいはエリックになれる機会が訪れるものだ。女性に「ばか」を連発されるのは、良いことではないので、一度ぐらいにしておこうか。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】