海市あり別れて匂ふ男あり
秦夕美
(『逃世鬼』)
海市とは蜃気楼のことで、海面や地表近くの空気の温度差によって、光の屈折が起こり、遠くの船や景色が浮かびあがって見える現象である。普段は見えないものが見えることも指す。海外の映像などで見る機会が多いのだが、日本では富山県が有名である。晩春には、大気や光の影響で内陸でも見られることがある。浮島現象や逃げ水現象も蜃気楼の一種とされる。私の故郷である茨城県の霞ケ浦では、対岸の建物が空中に浮き上がって見えることがある。陽射しによって湖の水面の温度が上昇し霞が立ったからとか、対岸の港に陽炎が立ったからとか、そんな説明を受けてきた。釣り人の間では、蜃気楼と呼ばれている。岸辺の佃煮屋さんの話によると、一年中見えるのだが、4月から5月が特に多いらしい。
霞ケ浦は、幼い頃より父に連れられて釣りをした場所である。釣りをしなくなった後も霞ケ浦の岸に立つと、父の煙草と汗と練り餌の匂いが蘇ってくる。それは、魚信を待つ時の高揚感を呼び起こす。海水の混じる湖の風には、胸を締め付けるような懐かしさがある。
就職したばかりの頃、合コンで知り合った男性と釣りの話で盛り上がり、霞ケ浦でバーベキューをすることになった。男性のワゴン車に男女6人が乗り、東京から2時間かけて、昼ぐらいにバーベキュー広場に到着。釣り好きの男性は一人で5本ぐらいの竿を立て、釣り番をしていた。女たちは、野菜や肉を切ったり焼いたり、釣りどころではない。他の男たちも最初の30分ほどは釣りをしていたが、やがてキャッチボールを楽しみ始めた。私は、釣り番の男性に焼けた肉や野菜を運び、一緒に水面を眺めた。夕方近くになり、駐車場と釣り場を行き来し後片付けを手伝った。釣り竿が取り払われた、水面の先には、蜃気楼らしき街が浮いていた。男性が「今日はありがとう」と言って、私の肩を抱き寄せた時、父の匂いがした。その後、男性とはよく飲みに行ったし、ドライブもしたが恋愛には発展しなかった。父と同じ匂いの男性は、ただ甘えたいだけで恋愛対象にはならなかったのだ。釣りで焼けた逞しい腕も屈託のない笑顔も魅力的であったのに、父と一緒にいるようにしか思えなかった。抱き寄せられた時、一瞬ときめいたのは、霞ケ浦の蜃気楼のせいだろう。
海市あり別れて匂ふ男あり
秦夕美
(『逃世鬼』)
作者は、昭和13年生まれ。日本女子大学国文科卒。藤田湘子主宰の「鷹」にて俳句の基礎を学んだ後、同人誌「豈」に所属。個人誌「GA」を発行した。自由で詩的な発想を持つ。精力的に句集を出版し、新しい表現を発信し続けた。第19句集『雲』出版間際の2023年1月22日に85歳で死去。〈とめどなく男がこぼれゆく涅槃 夕美〉〈十六夜の夫を身籠もりゐたるなり 夕美〉〈さみしいといへぬさみしさ花石榴 夕美〉。若くして医師であった夫を亡くし、幻想的でありながらもリアルな詩情に身を投じた。
掲句の背景は分からないが、もう触れることのできない男の匂いを感じていることが伝わってくる。別れた後で、ふと蘇る匂いを愛おしく思うことはあるものだ。海市という消えてしまう現象に対し、確かに身に刻まれた匂い。匂いとともに浮かび上がる逢瀬の感触。視覚から嗅覚、そして触覚までをも想像させる構造となっている。
海市や蜃気楼というとどうしても異国の匂いがある。砂漠の街で出逢った男女の一夜限りの恋や、イスタンブールのハーレムなど、不思議な憧れがつきまとう。実は、想像を膨らませれば、意外と身近な場所でも見られる現象なのである。
とある港から水上バスに乗ったことがある。途中で通り過ぎた古い漁港の市場は、黒々とした柱が並び廃れた宮殿のように見えた。陽炎のせいなのか、船の揺らぎのせいなのか、蜃気楼のように浮かんでは消えていった。海面の向こうに浮かぶ市場は、まさに海市という言葉がふさわしい。海の風からは、気が遠くなるほど遥か遠い昔に触れ合った男の匂いがした。
女性は、匂いに敏感だといわれている。男女が狭い空間で二人きりでいる際に、男性は、視覚が活発になるのに対し、女性は嗅覚が活発になるらしい。
美容師のAさんは、高校時代に交際していた男性と故郷に帰るたびに縒りを戻してしまう。東京の専門学校に入学後、遠距離になったため別れを告げたのだが、年に2回ほど開催される同窓会という名の飲み会で再会しては関係を持ち続けた。お互いに恋人がいても、逢うと抑えられなくなるのだという。価値観も趣味も合わず、結婚など考えたこともない。高校時代に交際することになったのも、失恋した者同士の成り行きだったとか。そんな二人も別々の伴侶を見つけ、家庭を持つことになった。結婚の報告も兼ねて、久しぶりに参加した故郷の同窓会。さすがに今回は何事も起こらず、懐かしんで終わるだろうと思っていた。二次会まで参加して帰ろうとすると彼が「二人だけでもう一杯飲もう」と言う。「酔い覚ましにお茶ぐらいなら」と海岸で缶ジュースを飲んだ。遠くの島の灯りが浮き上がって見えた。「不知火みたいだね」「いや違うよ。そういえば昔、蜃気楼みたいなのを一緒に見たよな」「あぁ、船が浮かんで見えたよね。実は飛行機だったんじゃない」「あれ?灯りの列が移動しているように見えるぜ」「本当?」。砂浜で肩を寄せ合っているうちに、自然な成り行きでキスをして抱き合ったという。
「彼とは長い付き合いだけど、あんなに刺激的な夜は無かったわ。そのとき気付いたの。私は彼の匂いに弱かったってことに。彼の匂いを嗅ぐと止まらなくなっちゃうの。だけど、あれが最後。次に逢った時、彼からは違う匂いがしたの。結婚して食生活が変わったからなのか、年齢のせいなのかは分からないけど。そういう私も太ってしまったから、彼の好みではなくなってしまったみたい。今でも時々、夢に出てくるのよ。夢の中の二人はまだ高校生なの。やっぱり、あれは蜃気楼だったのかな。でもね、目覚めたあとも、匂いだけがリアルに残ってるのよ」。嗅覚と視覚だけで繋がっていた男女の関係。普段は忘れているけれども、逢えば惹かれ合い、離れれば消えてしまう。そんな関係もあるのだ。
女性が男性の匂いに惹かれるのは、より強い遺伝子を残そうとする本能らしい。自分とは異なる遺伝子を残そうとするため、親兄弟と似た匂いの男性は選ばないとか。男性の視覚もまた、自分とは異なる容姿や雰囲気に惹かれるらしい。そう考えると美容師のAさんと相手の男性は、遺伝子的に相性が良かったのでは。好きだったのかどうかも思い出せないと言いつつも、今も夢に見るということは、運命的な結びつきがあったのかもしれない。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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