ぬばたまの夜やひと触れし髪洗ふ 坂本宮尾【季語=髪洗ふ(夏)】


ぬばたまの夜やひと触れし髪洗ふ

坂本宮尾
『天動説』

幼い頃、髪を洗うのは三日に一回であった。濡れた髪は風邪をひきやすいという理由であった。母親が忙しくて髪を洗ったり乾かしたりする手伝いが出来なかったためでもある。中学生になるまで、髪は三日に一度洗えば良いと思っていた。ちなみに母は、夏場でも三日に一度しか洗わなかった。パーマの掛かった髪にカーラーを巻くのが面倒だからとか。夫の両親を在宅介護するようになって分かったことだが、髪を洗うのは大仕事なのである。

髪洗ふ」は、俳句では夏の季語だ。夏になると汗をかくため頻繁に洗うからである。昔の人が、毎日髪を洗っていなかったことが分かる季語である。女性の髪が長かった平安時代においては、数時間に及ぶ大作業であった。そのため、匂いを隠す香の文化が発達したのである。髪とは夜に洗うものであるが、江戸の遊女たちは、客を送り出したあとの昼間に洗い、日髪を結っていた。

昭和62年、資生堂のモーニングフレッシュのコマーシャルの影響で「朝シャン」という言葉が流行った。朝食を抜いてもシャンプーはする女子高生が大半を占めていると話題になった。確かに、朝シャンをすれば、寝癖もとれるし髪のセットもしやすくなる。当時は、ウエーブヘアーも流行っており、洗い髪にムースを馴染ませると一日中濡れたような艶を維持することができた。現在では、朝シャンは頭皮に負担がかかるのことで推奨されていない。また、シャンプーが髪を痛めるので毎日洗わないという人もいる。髪を洗う頻度は、髪の質や年齢、季節によって変わるのである。

女性の洗い髪は美しく見えるものだ。滴るような光沢とほのかな匂い。男性からすると、髪を濯ぐなまめかしい姿まで想像するであろう。普段とは違った髪の表情にドキリとさせられる。女性としては、洗い髪はあまり見せたくない。素顔を見せるのと同じぐらい恥ずかしいからだ。だから、交際して間もない男性に洗い髪は見せない。〈七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ 橋本多佳子〉の句の〈人〉は、親しい男性と思われる。

ぬばたまの夜やひと触れし髪洗ふ
坂本宮尾

作者は、昭和20年生まれ。英米演劇研究者である。東京女子大学在学中に山口青邨の指導を受け「夏草」に入会。仕事や家庭の事情で10年間ほど作句を中断した時期もあったが、45歳の時に復帰。平成16年、『杉田久女』で俳人協会評論賞を受賞。平成30年「パピルス」創刊。〈春昼の角を曲がれば探偵社 宮尾〉〈梅雨深し名刺の浮かぶ神田川 宮尾〉のような現代的な街角の発見、〈冬濤や胸にタンゴの鳴りやまず 宮尾〉〈シベリアへつづく青さを鳥帰る 宮尾〉に見られる感覚的でありながらも大きな景の捉え方が魅力である。

特に、研究者と表現者の視点から論じた『杉田久女』は名著である。久女の美意識の高さや俳句表現に対するこだわりを詳細に検証している。それまでの「虚子のストーカー」という世間の認識を変えさせた。

〈ぬばたま〉とは、〈夜〉に続く枕詞である。ぬばたまは、射干(ひおうぎ)のことで、その実が黒いことから黒いものを導き出す比喩となった。「黒」に続く場合もあるが「髪」「闇」にも冠される。和歌の世界では、恋の闇を引き出すことが多い。

 〈ぬばたまのくろ髪洗ふ星祭 高橋淡路女〉では、〈くろ髪〉に掛かる。七夕を祝う星祭の夜の逢瀬を詠んでいる。発想としては、似ているのだが状況が異なる。

掲句の〈ぬばたま〉には、恋の闇が秘められている。真っ暗な夜に、人の触れた髪を洗う。〈人〉は、恋人であり、情事の後の湯あみと思われる。恋人の触れた髪を洗うのは、もったいないような気もするのだが、匂いを消したかったのだ。触れられた髪を、愛おしく思いながらも丁寧に洗う。相手を起こさないためか、秘め事を隠すためか、暗闇のなか、手探りで洗っているのだ。洗い髪を見せたくない相手なのか、それとも触れられた匂いを消すためか。答えは、ぬばたまの夜と同じぐらいに漆黒の髪に塗り込められている。

友人のキワさんは、学生時代より交際していたホクトと別れ、会社の上司と婚約した。上司の情熱的なアプローチに惹かれたのもあるが、30歳を控え結婚を焦っていたのだ。ホクトは、新卒で入社した会社を3年で辞め、その後は職を転々としていて結婚を考えてはくれなかった。上司に口説かれていることを告げると「そいつと結婚すれば」と言って去っていった。半年が過ぎたある夜、部屋のインターフォンが鳴った。出張に行っていた婚約者が予定より早く帰ってきたのだと思いドアを開けると、ホクトが立っていた。「ちゃんと話し合おうと思って」と。「ちょうど良かった。部屋に置いていったゲーム機を捨てようと思っていたの。持って帰るでしょ。ちょっと待ってて」。ホクトは何事もなかったかのように部屋に入ってきてソファーに座った。紙袋に入れたゲーム機を渡すと、「あれから、真面目に働いているんだ。他の女の子との交際も考えた。でもキワがいいんだ。キワじゃないとダメなんだ」と言った。「これから婚約者が来るの。早く帰ってくれないかしら」。ホクトは立ちあがって、キワさんを強く抱きしめた。逢わなかった半年間の出来事が一瞬にして消え去り、激しく求め合った。本当は追いかけてきてくれるのをずっと待っていたのだ。灯りを消した部屋に電話が鳴る。婚約者からだった。「やっぱり帰って」。ホクトは、無言で服を着て帰っていった。急いで部屋を片付け、シャワーを浴びた。そして、ゲーム機の入った紙袋を再びクローゼットの暗闇に隠した。

翌週、紙袋を持ってホクトの部屋を訪ねた。テーブルにはドーナッツの箱が置かれていた。「ごめん、彼女が来るのかな」「いや、3日前に突然やってきただけ。好きじゃないから食べてない」「私、結婚するの。だからもう逢えない」「分かった」。真夜中、シャワーを浴びながら泣いた。ホクトはもう追いかけて来てはくれないだろう。今ならまだ、取り戻せるかもしれない恋は、暗闇に包まれていた。ホクトは、この先も結婚など考えない。それでも構わないと思えるほどの若さはなかった。

それから1年後、キワさんは結婚した。ホクトからは何の連絡もなかったという。「あんな奴のどこが好きだったのかしら。青春時代の8年間を無駄にしたわ。でもね、追いかけてきてくれた時は、本気で寄りを戻すことを考えたのよ。あいつに他の女の匂いがしなかったら、また暗闇に逆戻りだったかも」。

女性は、先の見えない恋をしたがらない。今が楽しければそれで良いと考えた時期もあったのだろう。だけれども、好きだったからこそ、闇を感じたのだ。恋の闇は深く、魅力的だ。いつまでも闇という不安に耐えられるほど、女性は強くない。良い決断をしたと思う。若い時の闇を脱ぎ捨てて、キワさんは、とっても明るいお母さんになった。

篠崎央子


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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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