呼吸するごとく雪降るヘルシンキ
細谷喨々
(『父の夜食』所収)
とある句会で作者のほかにもう一人いる場面を詠んだ句について「作者がどこにいるのか、どちらの立場なのかわからない」とコメントした時に「小説のように『神の視点』からの描き方はないですか?」という問いかけがあったが、すっきりとした回答を出すことが出来なかった。室内の二人を詠んだ人事句を神の視点で描くことは可能なのだろうか?「不可能」ということは簡単であり、良くない理由はいくらでも挙げることが出来る。しかしそういう場面設定があるという事例の蓄積やそうだとわかるような作り方にするなど読む側に寄り添う労力がかかるだけで、ないことはないのではないか?その努力をする価値があるかどうかは別問題である。
場面設定が明確な句は魅力的だ。その理論が反映されているのが昭和の歌謡曲だといえる。『ネコの手も貸したい 及川眠子流作詞術』(著者は(『残酷な天使のテーゼ』『淋しい熱帯魚』などを手がけた作詞家)では映画を一本観たような気持ちになれた歌の例として『喝采』『五番街のマリーへ』『終着駅』などを挙げている。タイトルだけでもドラマを感じるが、聴き終わった時の充足度は確かに映画に匹敵する。
最近では小説を原作として歌を作るYOASOBIがそれに該当しそうである。場面設定を小説に預けているので歌詞単体でみるとそこまで映画的ではない。しかし情感は豊かだ。ブレイクのきっかけとなった『夜に駆ける』では、文字数が多いので余計な感情を込めない分それが聴く側の邪魔にならない点に惹かれる。筆者はそれを「お経効果」と呼んでいる。悲しい歌を悲しそうに歌う表現とは対極にあるそれは表現方法としての客観写生、多作多捨と同質なのではなかろうか。
『ネコの手も貸したい 及川眠子流作詞術』では、海外の地名の効果についても触れられている。歌われる舞台が『憧れのハワイ航路』(1948年)、『飛んでイスタンブール』(1978年)、『さらばシベリア鉄道』(1980年)といった時代を経てもう海外が珍しくなくなってきた頃に『歌舞伎町の女王』(1999年)が出たという分析には大いに首肯した。
呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
『憧れのハワイ航路』の時代であればヘルシンキはあまりに遠く、想像が及ばなかったであろう。しかし、世界を一周して歌舞伎町にまで戻り20年を経たこの時代にも、ヘルシンキという地名にはほのかな憧れがある。作者にはこの地を訪ねた個別の事情があったはずであるが、結果として時代にマッチした地名となった。
「呼吸するごとく」降る雪。降り続ける雪が風によって一斉に角度を変えるさまは天の呼吸のように感じられる。同時にそこには降る雪の量の多さを感じ取ることが出来る。そして中七。「ごとくゆきふる」と音読してみると舌が忙しい。そこには窓あるいは頬を打つ雪の重量が託されているようだ。
作者は小児科医。小児がんの最前線に立ち続けてきた作者の句の多くには〈凭れられても患児の軽し初時雨〉〈朝顔の花数逝きし子等の数〉など子を失う悲しみがつきまとう。ヘルシンキには学会で行ったのか、事情はわかりかねるがこの句からは日頃の喜怒哀楽から解放されて雪を仰いでいる作者が立ち現れる。
地名、俳号。この二つは時に最も有効な場面設定となる。
(吉田林檎)
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
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