せんそうのもうもどれない蟬の穴
豊里友行
窓を開けておくと当然ながら色々な音が入ってくる。車が走り過ぎたり、通学する児童だったり、烏が隣の家の屋根に降りたり。そんな物音のなかでつい先日、「ん?蝉?」という鳴声を聞き留めた。まさか。まだ六月だし、いつもの勘違いの空耳だろうと思ったのだけれど、散歩コースの公園を歩いていたら、蝉の穴としか見えぬものを幾つか見つけた。傍らの木を見上げても影も形もない。蝉たちも己の気の早さを知って鳴りを潜めているのだろうか。この公園は夏本番になればそこらじゅうにボコボコと穴が開き蝉の林になる。
蝉の穴はちょっと怖い。怖いのに、それとも怖いからなのか、ときどき膝をついて覗き込んでしまう。覗き込んだところで真っ暗なばかりで何も見えない。羽化の時期を迎えた蝉の子は本能に突き動かされてこんな暗闇を掘り進み、人が踏み固めた地面をこじ開けて出て来るのだなあ、と毎度毎度驚く。
掲句を読んだときに、私の覚える怖さの正体はもしかしたらこれだったのかもしれない、と思った。<もうもどれない>、そのこと。蟻の穴は住処だから何匹も出たり入ったりするけれど、蝉の穴は一たび出たらそれっきりなのだ。
穴から出た蝉の子には首尾よくいけば羽化し、あわよくば子孫を残して生を終えるという営みが待っている。しかし、戦争は違う。開戦の火蓋を切ってしまえば退路はない。<もどれない>はその恐ろしさに加えて特攻隊の出撃も連想させる。一方、地に開いた穴はひめゆりの塔に代表されるような防空壕の喩のようでもある。
これを書いている今日6月23日は沖縄慰霊の日。
作者の豊里友行は沖縄の写真家として、戦後76年経つ今も戦争の鉤爪の痕から血を流し続ける沖縄の現実を記録し続けていると聞く。
何やらいや~な足音が近づいているようでモヤモヤするこの頃、ハッと足を止めた俳句なのであった。
(太田うさぎ)
【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』。
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