切腹をしたことがない腹を撫で
土橋螢
ぽつねんと腹を撫でている姿を想像すると、なんだかかわいくも思えるし、少しだけ哀愁を帯びているようにも思える。
戦後しばらく経って、切腹という死に方を選んだ人はどれくらいいたのだろう。すぐに思い浮かぶのは三島由紀夫くらいであるが、他にいるのだろうか。
三島の死がそうであったように、また鷗外の『阿部一族』等を思っても良いが、切腹は単なる自決の一方法というより、その人の死生観や思想と膠着した、その人にとっての名誉ある自決の様式とされる。現代において、切腹という死に方の様式を選択する人がほぼほぼ皆無なのは、少なからず死生観の変容とも関わっているだろう。死に方よりも老い方に関心が集まるようになったのかもしれない。
現代における切腹の縁遠さを念頭に置いた時、大義やら道やらを持たずに生きている自分を思い返して、そういう感慨で「腹を撫で」ているとも読める。あるいは、切腹という様式の重みにそれほど強い理解を置かない人を作中の人物と想定すれば、もう少しドライに、そういえば切腹をしたことがないなぁくらいの感慨でも読める。その場合、「腹を撫で」は何故だかなんとなく試しに撫でているくらいのことなのかもしれない。存外、こちらの方が「何故だかなんとなく」自ずと撫でてしまったようで、感情にエアポケットがあるように思われて、作中の人物の感情が複雑に見えて来る。その点でこちらの読みを選択し、推したい読者はいそうである。
この句の時代の想定を現代ではないと考えれば、また話は変わって来る。武士などの大義や道の只中を進んでいるはずの者が「切腹をしたことがない腹を撫で」ていると考えると(農工商の場合は「切腹をすることはない腹を撫で」とかになりそうだ)、切実になって来る。
そもそも、この句にはちょっと変なところがある。「切腹をしたことがある腹」は、大方死んでしまって撫でられない。名誉ある切腹に心して臨んだ人間をわざわざ助け、医療を施して存命させるということはあることなのだろうか。そうやって助けることはたぶん本人の意志から逸れるだろうし、そうやって生き残ることは死に遅れたことにもなる。「切腹をしたことがある腹を撫で」を想定すると、そういう変な感じが思われる。
否定表現の効果によって、否定したことが強調されてくるということがある。加えて、否定表現を用いた時、その対にあるテーゼの存在も少なからず同時に意識の中に起こされる。それは例えば、「ひきだしに海を映さぬサングラス 神野紗希」の、「海を映さぬサングラス」のもう一方に「海を映すサングラス」の存在が思わされるという具合である。
(安里琉太)
【執筆者プロフィール】
安里琉太(あさと・りゅうた)
1994年沖縄県生まれ。「銀化」「群青」「滸」同人。句集に『式日』(左右社・2020年)。 同書により、第44回俳人協会新人賞。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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