夜なべしにとんとんあがる二階かな 森川暁水【季語=夜なべ(秋)】


夜なべしにとんとんあがる二階かな

森川暁水

引きずって歩く足音はあまり心地の良いものではない。靴にも床にもダメージがあり、何より歩く人の心が沈んでいるように感じられるのだ。

それでも引きずって歩いてくれてありがとうと思う足音が一つだけある。勤務先の役員S氏のそれである。S氏は社内ではサンダルを履いているので基本的に引きずった足音となる。しかし、ほとんどの時間を自室で過ごすのでその足音が披露されるのは日に2~3回程度。テレワークの日もあるので会えないことも多い。そんなS氏に時折声をかけなければならない時がある。それには部屋に出てきた瞬間をとらえければならないのだが、足音のおかげでかなりの確率で声をかけることが出来るのだ。

S氏は笑顔であることが多いので心が沈んでいることも感じられず、不思議とその足音を不快に感じることはない。引きずって歩く足音が役に立つのはそんな時くらいだ。

役に立ったといえるかどうかはわからないが、パートナーが私を選んだ理由のひとつに足音があるらしい。引きずる足音がどうしても受け入れがたいのだという。最低限の足音に感謝。

夜なべしにとんとんあがる二階かな

「とんとん」のオノマトペからは弾むような心持ちが感じられる。書類をどっさり持ち帰るような「夜業」とは違うだろう。「とんとん」という音の軽さは女性であることを思わせる。作者が明治生まれ(句集は昭和12年刊)であることも考えると妻が夫や子の祝い事のために晴れ着を仕立てるような夜なべとして鑑賞したい。ささっと済ませるのではなくはじめから夜なべ確定でありながら弾んだ気持ちで二階にあがるのだ。

夜なべをしに弾んだ足取りで二階にあがる妻の喜びを階下で共に味わっている夫の心情を詠った一句。

この句を令和の情景として読んだら全く違う鑑賞になるだろう。ギシギシいわない階段を、軽い足取りで上がっていく。「とんとん」というよりは「すんすん」の家の方が多いかもしれない。手にはノートパソコン。これからオンライン会議なのだ。先方は昼間だからテンションを合わせておかないといけない。ノートパソコンをセッティングしたら階下に飲み物をとりに行く。今度は飲み物をこぼさないようそうっと上がる。そうそう、化粧直しもしないと、で階段をもう一往復。

昭和と令和を比べてみると断然昭和の方が心は浮き立っている。どこにでもありそうな一場面だが、「とんとん」がそこはかとなく昭和を感じさせる。

※「暁水」の「暁」は句集では旧字(曉)です。

『黴』(1937年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



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