春立つと拭ふ地球儀みづいろに 山口青邨【季語=春立つ(春)】


春立つと拭ふ地球儀みづいろに)

山口青邨

 大学の卒業旅行は友人3人とパリを拠点に名所を巡った。うち1人は途中で帰り(喧嘩別れではなく、予定通り)、もう1人はスペインに向かい、私とあともう1人の友人Yは南仏・イタリアを巡った。なかなかの仲良しぶりであるが、この4人とは今でも時折集まっている。

 Yと2人で巡っていた時のことである。彼女のお父様の職場仲間が車でローマを案内してくれた。学生2人ではとても入れない「PRADA」に立ち寄ったりしつつ、メインのシスティーナ礼拝堂へ。《最後の審判》(ミケランジェロ)が修復中だったのだが、Yのお父様の勤めている会社が修復事業を支援していたため、スタッフ通路から入れてもらえたのだった。《最後の審判》の修復現場にも入れた。スタッフパスの実力たるや!

 向かって右側の真ん中より少し下にいる人物についての逸話を聞いた。名前はないようなのだが、顔を手で覆って絶望に打ちひしがれている、地獄に落ちる人物がずっと男性だと思われていたが修復の過程で女性であることが判明したというのだ。修復の考え方にも変遷がある。今はなるべく当時の状態に戻すというのが主流である。

 《最後の審判》ではあまり注目されることのない人物だが、この絵を見ると今でも真っ先に修復のことを思う。

   春立つと拭ふ地球儀みづいろに

 立春を迎えて行動的になったのか、いつもは目のいかないところまで拭き掃除をした。久々に地球儀を拭いてみると鮮やかな水色が甦る。拭いたことでこれまで埃が積もっていたことに気がついた。何気ない動作で、身の回りに隠れている鮮やかな色を甦らせることが出来た小さな感動を綴っている。独立した子どもの部屋に入ったと考えても良い。

 同じ状況を不注意に詠んでしまうと、たとえば〈春立つや地球儀拭ひみづいろに〉などとしてしまいそうである。しかし、ここで行われている「拭ふ」という行為は「いざ春が来た今こそ!」という大袈裟なものではない。予定にも習慣にもないさりげなさがあるから「みづいろに」の発見が際立つのである。さらに中七下五を悪い例のようにすると、水色にするために地球儀を拭いたようなニュアンスが紛れ込む。原因結果も明快になり詩心が薄れ、「みづいろに」を発見した感動も半減してしまう。掲句は「拭ふ」がもたらす美しい変化を完成された表現で描き出したのである。

 昔のこととはいえ卒業旅行の話を掲載することは時節柄ためらわれましたが、旅の喜びは何ものにも代えがたいものです。行けなかった方々も20代のうちになんとかやりくりして体験してもらいたいと思って書きました。いつの日か、ボンボヤージュ!

『雪國』(1942年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


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【吉田林檎のバックナンバー】

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>>〔17〕秋灯の街忘るまじ忘るらむ    髙柳克弘
>>〔16〕寝そべつてゐる分高し秋の空   若杉朋哉
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>>〔14〕向いてゐる方へは飛べぬばつたかな 抜井諒一
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>>〔12〕山頂に流星触れたのだろうか  清家由香里
>>〔11〕秋草のはかなかるべき名を知らず 相生垣瓜人

>>〔10〕卓に組む十指もの言ふ夜の秋   岡本眸
>>〔9〕なく声の大いなるかな汗疹の児  高濱虚子
>>〔8〕瑠璃蜥蜴紫電一閃盧舎那仏    堀本裕樹
>>〔7〕してみむとてするなり我も日傘さす 種谷良二
>>〔6〕香水の一滴づつにかくも減る  山口波津女
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>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎     神野紗希
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる  岸本葉子
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな    蜂谷一人


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